第9話 シュウという女
忍の国として名高い伊賀国にシュウは生まれた。物心ついたころにはすでに父や母はおらず、傍にいたのはむさ苦しい忍集団であった。女でありながら、男と同じように忍として育っていったシュウは、国を取りまとめる豪族たちの会合に呼ばれた。忍の何たるか、そしてその情報の使い道を教えられ、ついに忍として世に放たれた。
このときシュウは自分のことを血も涙もないまるで氷のような人間、いや人間ですらないとまで卑下していた。忍という役目がもし自分に適役だったとしても一生好きになることはないと思うほど忌み嫌っていた。
誰からの愛情も受けずに育った。一生誰のことも愛することはない、そう思っていたシュウが慕った男が一人いた。鳴海彦兵衛である。彦兵衛は伊賀国をまとめる豪族の一人で、正義感の強い青年だった。生きていくためにどんなことも厭わず行う忍とは正反対の人格者であり、シュウは頻繁に彦兵衛の元へ通った。二人の親密さは周知の事実であり、周りの忍たちから白い目で見られることも多々あった。しかし、シュウはそんな状況を気にすることなく生きていた。凍り付いていた自分の心を始めて暖かくした彦兵衛という存在を、忍などという下衆な者たちの冷たさによって奪われたくなかったのだ。
そんな日々を破壊する出来事が起きた。元亀元年三月、急速に力をつけて機内へ侵攻してきた織田家に内通したという咎で彦兵衛が追放されたのだ。その結果シュウも伊賀での居場所を失い、真夜中に抜け出して流浪の身となったのだ。
いくつもの山と森を超え、やっと開けた地へとたどり着いた。おそらく近江だろうと分かった。以前隠密に訪れていたことがあったからだ。
近くに村があるのが見えた。向かうとそこには六尺はあろう大柄な青年が村の人々に朗らかに話しかけ、村の人々が活発に返事をしている様子があった。シュウの知らない人間の温かみであった。そしてその温かみは大柄な青年から醸し出されているものだとシュウは感じた。自分だけでなく周りらも嫌われ、再び心に温かみを失っていたシュウは、救いを求めるようにしてその青年について探ることにした。
探ることは忍の生業。様々な情報がすぐに手に入った。青年の名は藤堂与吉高虎。この村を治める小土豪藤堂虎高の次男であり、村一番の腕っぷしとして知られているらしい。兄に比べて自由にふるまうことが出来るからこそ生まれる高虎の温かみに、シュウは陰ながら活気をもらっていた。
しかし、ある時から高虎が今までの活力を失い、心が冷たくなっていることにシュウは気づいた。高虎の兄が死んだのだ。
高虎を救わなくてはならない、シュウは直感的にそう感じた。しかしなぜだろうか。よく考えればまったくもって接点がなく、さらに言えば向こうは自分のことを認知すらしていない。どうしてそんな男のことを、自分は助けたいと思うのだろう。その答えはすぐに出た。一度失った人生の温かみを与えてくれた男を、今度こそ失いたくなかったのだ。必ずいつかこの男の近くで自分も生きていく。そう誓った瞬間だった。
高虎の背中を押すべく、シュウはついに高虎の前に姿を現した。表情は硬く、言葉が棘を持っていることをシュウは自覚していたが、できる限る自然体で接した。そして高虎の心を開き、弱さに向き合わせることが出来た。しかしこれはまだ第一段階に過ぎない。高虎という男をより高みへ上げるべく、シュウはすぐさま歩を進めた。
小谷城に到着すると、浅井家当主長政の寝所に忍び込んだ。
「何者だ!」
「静かにしろ!騒ぎ立てればお前の妻の命はない。」
「分かった。何用で参ったのだ。教えろ。」
「犬上郡藤堂村に藤堂高虎という男がいる。小心者と卑下していた自分を克服した変わった青年だ。上手く活かせば浅井家の天下取りにつながるかもしれないな。さらばだ。」
自分でも自分のことを不器用だと思っていたがここまでとは自分でも気づいていなかった。まあ伝えたいことは伝えたのだ。あとは神に祈るだけだ、そうシュウは思い再び流浪の身となった。
それから三年後、高虎が阿閉家から追われる身となっていることを知ったシュウは、身を潜めていた美濃から飛び出し、草の噂を頼りに南へと奔った。絶対に高虎を死なせるわけにはいかない。その思いだけであった。
三河国吉田村。薄暗い森の中で高虎が倒れているのを見つけた。シュウは女で高虎は六尺もある大男。一人で助けることはできない。
近くに炊事の煙が見えた。餅屋だ。シュウは迷うことなく暖簾をくぐると男が立っていた。
お互いの動きが止まった。男は持っていた盆を地面に落とした。男は鳴海彦兵衛まさにその人だったのだ。
「シュウ・・か?」
シュウは小さくうなずくことしかできない。声を発そうにも、歩き続けて乾ききった喉はさらなる渇きの様相を呈している。
「なぜここに来られたのだ?誰にも伝えずここに店を構えたんだが・・。」
シュウは思い悩んだ。彦兵衛は確かに自分の思い人であったがそれはもう過去の話。彦兵衛という存在そのものを自分は抹消したはずだ。なのに胸が苦しめられるような思いだった。
シュウは覚悟を決めた。彦兵衛はもう過去の存在。自分の人生を捧げるのは未来しかないのだ。
「あの森に倒れている男を助けてやってほしい。」
シュウは彦兵衛に、別れてからのことを全て伝えた。もちろん高虎のことも。
彦兵衛は一瞬悲しそうな表情を浮かべたが、すぐ笑顔になり高虎の元へと歩み始めた。ここまでの活気に満ち溢れたシュウを見たことがなかった。その時点で自分はこの高虎という男に負けたのだとすぐに気付いたのだ。
彦兵衛とシュウは何とか高虎を店の中に入れた。
「看病してやれ。」
「それはできない。」
「なぜだ?お前の未来を託すと決めた男ではないのか?」
「私は自分の中で誓ったのだ。次に高虎と会う時は高虎が立派になった時だ、とな。今はまだその時じゃない。私は傍にはいられない。」
「じゃあ俺に面倒見ろっていうのか。お前は変わらないな。」
「高虎は心に傷を負っていると思う。どうにかその背中を押してやってくれないか。これは高虎のためだけじゃない。私、そしてこの天下の運命がかかっているんだ。頼む。」
シュウは彦兵衛に頭を下げた。忍の出であるシュウが頭を下げているところなど見たことがなかった彦兵衛は、その勢いに飲まれ了承した。
俺は武士という身分を捨てて逃げてきた男だ、彦兵衛は自分のことを小心者であると卑下してこの三年間生きてきた。シュウという一人の女を通じて自分の思いを引き継がせられる男が出てきたのかもしれない、彦兵衛は直感的にそう感じた。
餅屋を出たシュウは足早に阿閉貞征の居城山本山城へ向かった。そこで貞征から高虎追放の真意、そして今後の高虎の身の振り方を聞くと、先手を打つべく近江長浜城へと向かった。
羽田正親という羽柴秀長の家臣に事情を説明し、秀長との対面の機会を手に入れた。もう忍び込むなどといった忍臭い行動はしないと決めていた。
シュウは自らの思いを全て秀長に吐き出した。秀長は驚いた表情を浮かべながらも、シュウを高虎が来る前に忍び衆の一員として迎え入れることを決めた。そして、高虎の秀長家臣団入り後には高虎の直臣となる旨の約束も取りつけた。
紆余曲折あったがついに高虎が秀長の配下となる許可が織田信長から下されると、シュウは真っ先に長浜を飛び出し佐和山城で高虎に会った。動揺する高虎を前に、シュウは胸の高鳴りを隠すことに必死だった。
人生を捧げてでも尽くしたいと思えた男が、ついに大名になるという大きな夢を抱いて、天下へと突き進む大海原を泳ぎ始めたのだ。
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