第8話 高虎奪還戦
高虎が佐和山城に入ったその日から、秀長は高虎の奪還に向けて奔走していた。農民上がり、そのため信頼のおける家臣が少なかった秀長にとって、近江の名将たちが一目置く若者を召し抱える得難い好機なのだ。実際に会ったことはないが、実績や過去の主からの言葉、さらにはとある人から聞いた高虎の過去を鑑みて、秀長は高虎と共に天下を支えていけると確信していた。
しかし、相手が厄介だった。佐和山城主織田信澄は信長の甥にあたり、秀長はおろか秀吉ですら自らの意見をそのまま通すのは難しい。加えて難儀なのは信澄の性格であり、直接交渉に臨めば意図せず感情を刺激をしてしまう恐れもある。そのため、秀長は表立っての行動を避け、すべてを密に行うことにした。
まず行ったのが、信澄の配下にいる旧磯野家臣団の取り込みであった。彼らを取り込むことで、信澄との交渉を優位に進めるというのが秀長の目論見であった。
彼らの多くが信澄に対して反感を抱いており、密談を行うことは容易であった。また、彼らの多くは高虎の才覚を認めており、自分たちと同じように佐和山にいてはもったいないという者ばかりであったため、秀長の調略はわずか一月足らずで成した。
しかし、事態は急変する。秀長からの調略を受けていた磯野旧臣の一人、真辻十郎右衛門が信澄に事の次第をすべて報告したのである。話を聞いた信澄は烈火のごとく怒り狂った。怒りに任せて佐和山城を発った信澄は、十郎右衛門を引き連れて叔父であり主の信長がいる岐阜へと向かった。
真辻十郎右衛門の裏切り、そして信澄が岐阜へ向かったことを聞いた秀長は、拳を強く握りしめ、近くの壁を力いっぱいに叩いた。普段の温厚な秀長しか知らない家臣らは思わず息をのんだ。真辻十郎右衛門の狙いは、密告をしたことの褒美として出世をすること、それは明らかであった。磯野家臣団の寛容な態度に油断していた自分が悔やまれた。
過去のことを悔やんでいても仕方がない。秀長は新たな策を立てるべく自室にこもり、二刻ほど頭を悩ませた。そして秀長が出した結論は、今すぐに岐阜へ向かうということであった。
岐阜に到着した信澄は、すぐさま信長に拝謁し、涙ながらに事の次第を信長に訴えた。
「高虎はそれが死にとっても大切な家臣なのでございます!叔父上!どうか、どうか!私をお助けくださいませ!」
人目をはばからずに大粒の涙を流しながら訴える信澄に対し、信長は様残な思いを脳内で巡らせた。畿内と東国を結ぶ要衝である佐和山城主たる者がこのような振る舞いでは、家臣の心が離れるのもうなずける。秀の行動はその弱さを利用した見事な策といえる。ただ、信長にとって数少ない身内の一人。実利をとるか、情をとるか。
この時の信長にはまだ迷うという余裕があった。そのとき、秀長が岐阜に到着したという報せが入った。どちらの言い分も聞くことができる良い機会だと考え、信長は早速にも秀長を部屋へと招き入れた。
部屋に入ってくる秀長は、あの秀吉の弟とは思えないほど整った姿勢と、凛とした表情で信長の前に着座した。
「秀長よ。何をしに来たのだ?」
信長の甲高くも威厳のある声が部屋に響き渡った。
「はっ。本日参りましたのは、御屋形さまの甥御信澄さまが佐和山城より岐阜へお越しであると聞き、お二人にお願いしたき儀があります故まかり越した次第に存じまする。」
秀長は曇りなき真っ直ぐな目と、ぶれることのない声で信長に答えた。その凛々しい態度は、信長の横で話を聞いている信澄を身震いさせた。
「ほう。何を願うのじゃ?ましてや信澄もおらねばならぬとはいかに?」
信長はわざとらしく白々しい口ぶりで尋ねた。
「単刀直入に申し上げましょう。信澄さまの配下におられる磯野家旧臣の藤堂高虎なる者を我が方で召し抱えたく存じまする。信長公のお耳にもすでに入られたかと存じますが、私は内々に実現できるよう動いていましたところ、露見してしまいました。その申し開きと、改めて藤堂高虎の召し抱えのお許しを頂くこと、これが本日まかり越した理由にございまする。」
秀長は悪びれる様子もなく堂々と言い放った。
数秒の沈黙の後、信長が大きな笑い声で沈黙を破った。
「そなたの歯に衣着せぬ物言い、毎度のことながら流石であるな。聞いていてここまで気持ちの良い口上ができる者は、織田家内においてそなた以外にはおらぬ。良いだろう。藤堂高虎とやらの件そなたに任せる。召し抱えたいのならば好きにいたせ。」
「はっ!ありがたきお言葉にございまする。」
信長の判断に、同席していた織田家家臣らがざわつき始める。そして信澄もこの判断に黙ってはいられなかった。
「お待ちくだされ!私の願いはどうなるのですか!私の願いよりもサルめの弟ごときの願いが優先されるのでございますか!納得いきませぬ!」
信澄は上ずった声で必死に訴えた。目には再びうっすらと涙が浮かんでいた。
「黙れ!織田家の主は誰だ!そなたではないであろう!そなたのような者に佐和山を任せたのが間違いだったかもしれんな。そなたの処遇に関しても後に吟味する。下がれ!」
信長の一喝で場は収まった。秀長は人生で最も昂っていた心を落ち着かせ、近江へと戻った。
長浜に戻った秀長は、高虎の主であった阿閉貞征と磯野員昌を呼び出し、高虎の今後について三刻にも及ぶ長い会合を行った。そのなかで、浅井長政が遺した言葉とそれぞれの体感を鑑みて、今後の高虎の扱いにおける一つの重要な指針が定まった。それは、武芸一辺倒の高虎に新たな武器となる“学問”を授けるということであった。城持ち大名になることが夢であるということ、“小心者”を克服して強くなったことを踏まえて出された新たな道標だった。
秀長は、高虎と対面するのを心待ちにしながらも、自らが高虎という一人の若者の将来を切り開く存在であるということの責任感を持ちながら着々と準備を始めた。
一方、自室で槍の手入れをしている高虎の元へ、一人の女が訪れた。
「久しぶりだな。高虎。」
「そなたは・・!」
「時間がない故端的に用件を伝えさせてもらう。お前は羽柴秀長さまの配下になることになった。」
「は・・?」
「加えて私がお前の一人目の家臣になる。頼むぞ。」
「は・・?」
「名は名乗っておこう。シュウだ。急ぎ長浜へ向かうぞ。支度しろ。」
高虎は全く状況が理解できなかった。目の前にいる女は村で少女を救った後に話しかけてきた女だ。なぜここにいるのだ?羽柴秀長とのつながりはなんだ?家臣になるとは一体?
何もかもが理解不能だった。頭の整理がつかないまま高虎は長浜へと発った。
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