第32話 織田家の双璧
時は戻って三月十九日、羽柴軍が賤ヶ岳付近に布陣したころ、長島で秀長と別れた高虎はシュウと二人で後瀬山城へ向かっていた。若さを領する丹羽家が居城とする後瀬山城は、海にほど近い山城であり、その容貌はいつか攻め落とした竹田城を思い出すものであった。
城へ招き入れられた高虎は客間へ通されると、すぐに城主丹羽越前守長秀が入室し上座に着座した。高虎は戦場で何度か長秀のことを見かけたことがあった。しかしその時すべて長秀は甲冑を着た姿をしており、普段着をしている姿を見たことはなかった。戦場では天下の織田家家老として頼りがいがある男であると認識していたが、内地ではただの中年の男であるようにしか思えなかった。ただそれがこの男の魅力であり、出世の理由であるのだ、と高虎は思うことにした。
今まで対峙してきた老獪な将に比べると多少難儀ではなさそうではあったが、この男が天下の行く末を握っていると思うと責任感で背筋が伸びた。
焦点のあっていないように思われた長秀の細い目が急にカッと力強く開き、高虎を捉えた。そして数秒見つめた後、深い息を一つついて話し始めた。
「藤堂高虎殿であるな?」
「はっ!いかにも羽柴秀長が家臣藤堂与右衛門高虎にございまする!」
「そなたの用向きは分かっておる。儂に迫る戦にて羽柴勢に加勢せよということであろう。」
さすがは信長にも一目置かれた織田家家老、言葉の節々から只者ではない覇気を高虎は感じ取った。高虎は長秀の目をじっと見つめ深くうなずいた。出来る限り神妙な面持ちを心掛けた上でであった。
「わかっておろうが、儂と権六は四十年も共に戦ってきた親友じゃ。しかし、情勢はそなたの主の兄秀吉殿に傾きつつある。」
高虎は再び頷いた。
「儂がどちらにつくか態度を明らかにすることで、儂に続いて態度を明らかにする者らが相次ぐだろう。儂の判断が天下の情勢を変える、そんな責務がこの胸を締め付けるようじゃよ。」
長秀は年の割にたるんだ首の皮を引っ張りながら話した。迷っているように見せてはいるが、すでにその腹は決まっているのだと高虎には分かった。それがどんな決断なのかまでは掴めなかったが。
長秀の決断をいち早く聞き出し、もし味方になるならば最大限活かす策を練る、そして万が一的となるならば全力で加勢を阻止する、それが自分のやるべきことであると再認識し、その日は客間を出て城下の客人屋敷に入った。
屋敷を用意してくれたところを見るに、長秀は高虎とすぐに敵対する道は選ばないだろうと高虎には思われた。だからこそじっくりと丁寧に長秀の真意を引き出すべきだと高虎は考え、頻度を変えながら度々長秀と対面した日を追うにつれ深い話もできるようになっていったが、肝心の今後の動向に関しては言及がないままであった。
一か月経った。向かい合った羽柴勢と柴田勢の戦況は逐一秀長から高虎に届けられていた。激しい戦闘が開始していないというのが幸いであったが、いち早く勝負を決めたい羽柴方にとっては難しい情勢であった。
いまにも黒田官兵衛の主導で敵を挑発して戦を始める策が実行に移されそうであることが知らされると、高虎は急ぎ長秀との面会を取りつけた。此度は初めて客間まではなく、本丸の広間へ案内された。焦った様子の高虎を見た長秀は、にやりと笑うと一息ついた後に話し始めた。
「その様子を見るにそろそろ戦が始まろうという頃であろうな?」
「いかにも。今こそ丹羽さまにも動いていただかなくてはなりませぬ。」
「言うと思っておった。儂とそなたの仲じゃ。言っておいてやろう。岐阜の織田信孝さまが再び挙兵なさる。」
「なんですと!」
「こうなると秀吉殿は東にも兵を割かねばならなくなり、近江に残る兵は限られてくる。すると権六は好機とみて羽柴勢に襲い掛かる。これが今後一週間ほどに起こるであろうの。」
高虎は困惑した。自分が戦場に身を置かずにいる中で情勢がここまで変化することが、口惜しく、そして悔しかった。
「なればこそご加勢を!」
「これは天がもたらした好機と見える。」
「好機、とは?」
「儂はもとより秀吉殿にお味方するつもりでおった。清須での評定と同じようにな。」」「なれば何故そう言ってくださらなかったのです?」
「情勢が秀吉殿に傾く中、親友である権六を再び裏切って秀吉殿に加勢すれば、この丹羽長秀の名は廃れることになっておっただろう。しかし今は違う。五分五分となったこの機に加われば、名を汚すことなく儂が天下を決めることが出来る。そういう意味での好機よ。」
高虎は絶句した。長秀がただ自分の想いに素直になれずにいるものとばかり思っていた。しかし自らの名誉と天下の安寧のどちらも憂慮しての態度であったのだと思い知った。唖然とする高虎を後目に家臣らに号令した。
「我らこれより出陣いたす!めざすは柴田の陣!権六の首を挙げてここに帰ろうぞ!」
家臣団は力強く拳を掲げた。織田家の双璧の一角が、もう一方の壁を打ち壊しに立ったのだった。
家臣らがすべて部屋から出ると、長秀は高虎の目を見ていった。
「儂はそなたのことを生涯忘れることはない。実のところ、一月前にそなたがこの城に来るまでは柴田と羽柴のどちらにもつかぬつもりであった。そなたが儂の背中を押してくれたのよ。」
「あ、ありがたきお言葉。」
「儂の三男、仙丸がそなたの主羽柴秀長殿の養子となっておることは知っておるな?」
「はい。」
「仙丸が元服するまで儂は生きておられぬやもしれぬ。そうなれば仙丸の立場は危うくなる。そなたの手で仙丸を支えてやってくれ。これが儂からの頼みじゃ。」
「か、かしこまりました。」
三日後、丹羽長秀率いる丹羽軍三千とは後瀬山を発った。
琵琶湖を渡って戦場に向かう船内で、激しく火花を散らす羽柴・柴田両勢の戦況を知った。そして激戦地となっている賤ヶ岳砦の守将が元家臣桑山重晴だと知ると、方向転換。一度坂本に入ってから戦場へ向かうという予定を変更し、直接激戦地へと突っ込むことに決めたのだった。家臣らは長秀を止めようと試みたが、長秀の心は決して動かなかった。
上陸した丹羽勢は休むことなく賤ヶ岳砦に向かい、砦に攻めかかる佐久間盛政隊・柴田勝政隊に背後から猛烈な射撃攻撃を行った。そして間髪入れずにひるんだ敵勢に突撃した。さらには好機と捉え砦から飛び出した桑山隊と挟み込む形となり、盛政隊・勝政隊は南へと逃げるように退却していった。退却を拒んだ盛政も実弟安政に引きずられるようにして引き上げていった。
しかし彼らが退却していった先には、桐紋が描かれた黄金色の紋をたなびかせる二万もの兵がいたのだった。
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