第30話 死ぬる覚悟
柴田方の動きに対し、秀吉は迅速に対応した。伊勢全域を押さる勢いで勢力を拡大する滝川勢に対し、すぐさま鎮圧に動いたのであった。
佐和山城主堀秀政の部隊のみを豪雪で動けないと目されている柴田本隊の監視に充て、残りの部隊全てで伊勢へ鎮圧に向かった。当然秀吉や秀長といった中心的な将も伴ってのことであった。その一方で大和の筒井順慶や伊賀の蒲生氏郷といった周辺諸国の有力武将の隊を動かし、伊賀へ抜ける街道の阻止も怠ることはなかった。
秀吉本隊や秀長隊といった羽柴軍に加え、信雄率いる織田本隊が加わったことで滝川勢は織田家に弓引く不忠者という評判になった。そしてついには七万の軍勢で長島城を包囲し、名実ともに孤立することになったのである。
しかしこのような状況でもおれないのが稀代の名将滝川一益であった。神流川での北条勢相手の敗戦で地に落ちた名声を取り戻すまたとない好機、諦めるわけにはいかなかったのである。九年前、長島一向一揆鎮圧の際に自らが先陣を切って奪ったこの堅城を、今度は守る立場になった。兵の数は攻め手七万、守り手五千と奇しくも九年前と同じであった。
羽柴方が城を包囲してから一月が経過。何度も迫りくる攻め手をはじき返し続け、長島城はほとんど無傷の状態であった。
雪が解け始めた天正十一年二月の下旬、ほとんどの情報を得られていなかった勝家の元に長島城の状況が届き始めた。養子勝豊の裏切りに怒り心頭であった勝家の心は落ち着き始めた。それを見た勝家のもう一人の養子勝政と今後の方針について話した。
「一益はさすがよのぉ!あのサルめが七万も集めたのには驚きだが、それをはじき返すとは!やはり信長様が見込んだ男はちがうのぉ!」
「なれば我らもそろそろ動かねばなりますせぬな。」
「うむ!雪も解け始めたことだしの!七万を一益が惹きつけてくれておるということは、近江は手薄であるということ!すぐさま近江への出陣の支度をいたせ!」
「はっ!かしこまりました!」
勝家の家臣や一門からの信望は厚かった。家臣だけでなく、前田利家や佐々成政といった与力からも”親父さま”と呼ばれる程慕われていたのだ。彼らが領地を持つ越前から加賀までの北陸勢を一斉に動員できる自信もあり、その動員が為れば簡単に近江を攻め潰すことが出来ると確信していた。
勝家は満面の笑みで勝政を見送った後、それを追うように足早に部屋を出て愛妻市の元へ向かった。
「お市さま!」
「さまはやめてくださいと言いましたでしょう?市で良いのです。」
「あ、あぁ。い、市、さ、ま」
市は思わず笑みを浮かべた。それに合わせるように勝家も笑みを浮かべ夫婦の間に独特な暖かい空気が流れた。まさに美女と野獣といえる関係性であった。
「それで何か言いに来たのでしょう?何かではないですわね。秀吉を倒すべく出陣なさるのでしょう?」
「そ、その通りにございます!この権六、お市さま、いや一のために全力で戦ってまいる!」
「そんなに気負わないで行かれませ。無理をなさるとお命にかかわりますよ。もうお若くないのですから。」
「わ、わかった!絶対に生きて帰ってまいる!次は安土で会おう!」
「ふふっ。朗報お待ちしております。」
「行ってまいる!」
「お気をつけて。」
部屋を出た勝家の眼にはじんわりと涙が浮かんでいた。戦況が不利であるとは言えない状況なれど、厳しい戦になり命の危機すらあるであろうと感じていた。若い頃から慕い続けた市と遂に夫婦になってまだ数か月。人生とはこうも儚いものかと勝家は思っていたのであった。市のためにも、自分のためにも決して負けは許されなかった。
勝家は、本隊に加え前田利家、金森長近、不破直光、佐久間盛政らが率いる北陸の精鋭部隊も動員した計三万の部隊で北近江へと南下した。羽柴方との決戦も視野に入れた大規模な行軍であった。
一方、長島城攻めに苦戦する秀吉の元に勝家挙兵の報が、監視に残してきた堀秀政からの早馬によって届けられた。
「秀長!官兵衛!権六がついに動いたぞ!」
「やはり雪解けと同時に動いてきましたな。して兄上どう動かれますか?」
秀吉は口をきつく結び、目を閉じて考え込んだ。そこに官兵衛が口を挟んだ。
「信雄さまの織田本軍二万を残し、我らの五万で北近江に向かいましょうぞ。北近江は我らの勝手知ったる地、兵力と地の利共に勝った我らに決戦での負けはありませぬ。」
官兵衛は焦っているようであった。自らが参加できなかった清須会議で秀長が結果を出したことが大変悔しかったのだろう。秀長をチラチラと横眼で見ながら秀吉に策を献じていた。秀長はこみ上げる笑いを隠しながらも、ここは官兵衛に譲ることとした。
「兄上、某も黒田殿の策に同意でございます。今ここで柴田勢を叩き、うまくいけば再起不能にすることもできます。そうすれば自然とこの長島城も落ちましょう。決戦で勝利を得る好機はまさに今でございます。」
官兵衛の言葉ではピクリとも動かなかった秀吉は、秀長の言葉を待っていたと言わんばかりに立ち上がり、諸将に号令した。
「これより我ら北へ向かい、権六の隊と雌雄を決する!臆するな!天下は目の前ぞ!」
床机を囲む諸将が鬨の声を上げた。只一人、官兵衛だけは腑に落ちない表情で床机の上の絵図をにらんでいた。
一足先に陣を出た秀長は高虎を呼び出した。
「高虎よ、言ってほしいところがある。」
「後瀬山城でございますな?」
「さすが。いかにもだ。」
「必ずや味方に引き入れてまいります。」
「うむ。期待しておる。」
「して某の部隊はいかがいたしましょう。」
「そなたが戻るまでに決戦とはなっておらぬであろう。ただ念には念を入れ、そなたの従弟良勝に暫定的な指揮をとらせよう。儂の部隊に続いて近江へ連れていく。」
「かしこまりました。私はシュウと共に急ぎまする。」
「頼んだぞ!」
高虎が向かった後瀬山城は何を隠そう丹羽長秀の居城であった。どっちつかずな丹羽勢を味方に引き入れることが出来れば、相手の士気はみるみる下がる、秀長はそう読んでいたのだ。
三月十二日、柴田勢三万は柳ヶ瀬に着陣した。そしてその七日後の三月十九日、羽柴勢は余呉湖の東に布陣した。秀吉の本陣は木之本に置かれ、秀長隊は田上山に布陣。決戦の勝敗を左右することになる賤ヶ岳砦には、丹羽長秀の旧臣であり現在は秀長の家臣である桑山重晴の部隊が配置された。
天下を占う決戦は刻一刻と迫っている。
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