第37話 孫一という男
天正十二年、羽柴方と織田・徳川両家が講和し休戦となったことで、羽柴方に対抗しいわゆる“羽柴包囲網”を形成していた各地の諸集団は孤立を強いられた。特に羽柴家の本拠大坂城からほど近い紀伊の雑賀衆や根来衆の再起は困難であり、秀吉にとっても征伐の最初の標的となった。
尾張の地で羽柴軍が織田・徳川連合軍との戦に出陣した直後に、紀州勢が秀吉の不在を狙って大坂城に攻めてきていたという経緯があった。城に残した蜂須賀親子の活躍もあり領地や城を奪われることはなかったが、秀吉が安土や岐阜を超える大都市を目指した大坂や堺の多くが炎に包まれたため、秀吉は尾張での戦の間もその怒りを心底に据えかねていた。
紀州の雑賀衆や根来衆といえば鉄砲をいち早く戦に導入し、織田家の多くの戦に参陣してきた実力派鉄砲衆であった。織田家との関係は主従ではなく、その時々に報酬として金子や地権を得るという今で言う“ビジネスパートナー”のような関係性であった。
信長の思い描く天下に共感した彼らであったが、天正十年の信長の死をきっかけに一転し敵対姿勢をとった。これは新たに権力を握った秀吉が、紀伊衆と対立していた堺に肩入れするようになったことや、より報酬を高く設定した徳川方に味方すべきという論が噴出してきたことに起因するものであった。
そんな情勢の中、羽柴方として立ち上がることを決めた有力者がいた。鈴木孫一重秀である。“雑賀孫一”の名でも知られるこの男は本願寺に味方し、信長を苦しめてきた男であった。信長もその実力を高く評価し、自らに歯向かったにもかかわらずとがめだてもせず厚遇した。
信長から多恩を蒙った孫一は、今まで批判してきた信長の支配体制を一転し高く評価するようになり、周囲との溝が生まれるようになった。信長の死によりその対立は決定的なものとなり、信長の政治体制を継続しつつ新たな天下泰平という理想を追い求める秀吉につく選んだ孫一は自ら紀伊を離れた。秀吉から手厚く迎えられ、直属の鉄砲隊を率いることになり、先の織田・徳川連合軍との戦でも柴田勝政隊を殲滅に追い込む功を挙げた。
紀州征伐を決めた秀吉から、征伐部隊の総大将が秀長であること、そしてその先鋒を自らが務めることを聞いた高虎は、秀吉の助言も受け共闘を願い出るべく孫一の元を訪れた。
「鈴木殿。お初にお目にかかりまする。羽柴美濃守秀長が家臣藤堂与右衛門高虎にございます。」
「藤堂殿、ご活躍の噂はかねがね。貴方も鉄砲衆を率いて先の戦で活躍されたとか。ぜひ話してみたいと思っておりました。」
「某の名を知っていただけているとはまこと光栄の極みでございます。かつて信長公にも一目置かれた鉄砲隊の指揮官さまに様々学びたいことがありまかり越した次第にございまする。」
高虎の過度な持ち上げに孫一は顔を赤らめながら苦笑した。その様子に高虎は
―誰しも弱いところがあるというが、この男は褒められることに弱いー
と瞬時に分かった。孫一が返答に困る間に追撃するかの如く言葉を加えた。
「某はまだ鉄砲隊を率いてまだ日が浅うございます。それに先の戦での功も逃げる敵を待ち伏せして撃ちかけただけのこと。真の鉛玉での戦というものを知りませぬ。ぜひ戦場でご教授賜りながらともに戦っていただくことはかないませぬでしょうか。」
孫一の顔から笑みが消えたことを高虎は察した。かつての仲間との戦で気が乗らないことは想定していたが、ここまでの深刻な表情を浮かべることは想起していなかった。
「藤堂殿にぜひ協力したいと思っております。しかし敵は私の旧友たちです。秀吉様にお味方したのは利にとらわれず天下を目指すという理念を曲げたくなかったからなのです。表立っての助力あなたに協力することも、同志だろうと敵だろうとを後から撃たないという私の理念に反するのです。」
今度は高虎が苦笑した。先の戦を皮肉られたと感じたのである。その苦笑を見て孫一は慌てて発言を釈明した。
「いや藤堂殿を責めたりしたわけじゃあありません。私の信念を述べたまでのこと。紀伊の者らに私の存在を察されぬようにしていただけるのならば、できる限り貴方の力になりましょう。」
「あ、あぁ。宜しくお願いいたしまする。」
高虎は頭を抱えながら孫一の元を去った。目的は達成したものの、むずむずしていた傷をえぐられたようでどうも落ち着かなかった。
一方、紀伊の雑賀衆・根来衆は団結し羽柴軍の征伐軍に立ち向かうことを軍議の場で再確認していた。湯川直春、畠山貞政、太田宗正の三人が合議という体制をとりながら戦っていくことに決したのである。中でも羽柴家に対し強い対抗心を持ち、決して降伏してはならないと闘志を燃やしていたのが湯川直春であり、実のところ今回の抵抗も貞政と宗正を直春が強引に説得したという流れであった。この三人の協力体制はまるで一枚岩といえる状況ではなかった。
軍議を終え神妙な面持ちで自らの居城亀山城へ向かう道中、直春の悩みを聞くために話かけた男がいた。直春の家臣であり懐刀的存在の山本主膳である。
「殿、やはり本日の軍議で結論は出ませんでしたか。」
「いや、結論は出た。羽柴に対抗し兵を挙げる、一応そう決まった。」
「ならば喜ぶべきことではありませぬか。何故そのように暗い面持ちをしていらっしゃるので?」
「奴らはまるで戦う武士の顔をしておらぬ。形勢が不利となれば羽柴方に恭順しようなどと呑気なことを考えておるに違いない。冷静に考えてもみよ。今まで何度も岸和田や大阪に攻め入っておるのだ。少しでも秀吉の目に留まる良き戦が出来たならならばよいが結果はすべて惨敗。此度の戦で敗れようものなら我ら皆一族もろとも首が飛ぶのじゃ。」
「殿、いささか考えすぎかと。畠山さまも太田さまも思いはきっと殿と同じでございます。」
「そなたまで呑気なことを言うのか。」
「いえ、そのようなつもりは。少なくとも私は最後まで殿と共に戦いまするぞ。」
「調子のよいことを言いおって。」
秀長を総大将とする羽柴軍による紀州征伐が始まったのは翌年、天正十三年の三月のことであった。するとすぐに直春の危惧していたことが起こった。有田郡を領する白樫氏や神保氏といった領主らが次々と羽柴方に寝返ったのである。加えて自らの娘婿でもあった日高郡の玉置直和も抵抗せず羽柴方に開城したのである。
―結局は利しか考えぬ腰抜けどもめー
と直春は思った。かつて想いを同じくした鈴木孫一がいてくれればとさえ思った。
直春と孫一はともに紀伊で育ったいわゆる幼馴染であった。雑賀衆の長の子であった孫一と、雑賀衆に力を借りる領主の子であった直春の間に出自の違いがあったものの、それを周囲に感じさせぬほどの親密な仲であった。共に本願寺に助力し、戦場で功を立てる孫一とそれを後ろから援護する直春という構図は、紀伊の中だけでなく畿内全域に知れ渡り、今で言う“名コンビ”として絆はさらに固くなっていた。
しかし本願寺の敗北後、孫一のみが信長に厚遇されるようになってからは関係が悪化。軍議などで同席しても言葉を交わさないようになっていった。そんな状況に耐え兼ねた孫一が紀伊を出奔し羽柴方についたという流れであった。直春の今の願いは孫一が紀州征伐に同行せず、刃、いや鉛玉を交えないようにしてほしいということであった。
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