第20話 祝言
天正九年七月、小路比村の一揆鎮圧に伴い、高虎が秀長から任されていた但馬の統治が完了した。これは秀長渾身の“新たな指揮官”作戦の完遂を意味し、高虎にとってはさらなる大手柄であった。この功労に伴う加増を含めた恩賞を待つ間、高虎は言葉に表せない正体不明の淋しさを感じていた。
源左衛門からの言葉で、支えてくれる者の存在とそのありがたみに気がついて以来、家臣たちと寝食を共にしない期間、つまり戦のない期間に味わったことのないような孤独感に襲われていたのだ。特に、灯りが消えて風の音しか耳に入らない夜更けには、その寂寥感は涙が頬を伝うほどにひどいものであった。高虎も数え二十六になるため、そんな状態であることをだれにも告げることが出来ず早二か月が過ぎようとしていた。
顔にはクマが現れ、軍議においても上の空。そんな高虎の異変を察した秀長は、高虎を呼び出して言葉を交わすことにした。正直高虎の心情が秀長には理解できたのだ。
「高虎、但馬の統治ご苦労であった。」
「はっ。ありがたきお言葉。」
平素は秀長に褒められると口角が上がり、表情筋が緩む高虎であったが、この日の高虎は表情を変えることなく返答した。
「最近何かあったのではないか?」
「い、いえ。特に何も。」
秀長は高虎が一瞬言い淀んだのを聞き逃さなかった。
「最近夜眠れてないのであろう?もしや寂しさが強まっているのではないか?」
「えっ?」
図星だな、と秀長は確信した。高虎の悩みを晴らすことが出来ると確信した秀長は、続けて高虎に言葉をかけた。
「私もそういう時期があったのだ。」
秀長は頬を緩めて高虎に笑いかけた。高虎は寂しさを隠そうとしていたが、秀長の寛容な態度の前にそれはもう不可能であった。
「私が信長様に仕官した兄上に従って岐阜に入ったころ、よなよななぜか物寂しく眠れない日が続いてな。それが一月以上続いた時、あることをきっかけにそれが止まったのよ。何かわかるか?」
「い、いえ。加増か何かでございますか?」
「いや違う。」
秀長は含みのある笑顔を浮かべた。
「して高虎、そなたいくつになった。」
「数え二十六にございます。」
「そうか。」
秀長は少しの沈黙の後、優しい笑みを浮かべてどの沈黙を破った。
「高虎、嫁をとれ。」
「へ?」
「私がそなたと同じ苦しみを抱えていた時、信長さまのご厚意で妻を迎えることになり、今まで抱えていた寂しさがすべてどこかへ消えたようになくなったのだ。そなたは今まで一人でよく頑張ってきた。だからこそここで、そなたを傍で支えてやれる者が必要だと、私は思う。そなたを心から支えられるできたおなごを必ず私が探してやる。」
高虎は息を押し殺して考えた。今まで女に現を抜かすことなく、自分だけに矢印を向けて生きてきた。考えもしなかった“妻”という存在に初めて目を向けることになった。
「悩むのも致し方ない。返答は待つ。私を信頼してくれ。」
俯く高虎には、秀長が涙を流している様子は見えなかった。しかしその声が少し上ずっていることだけは分かった。
その夜、高虎は再び寂しさに襲われた。妻という存在がこの悪夢を断ち切ってくれるとは高虎には到底思えなかった。しかし、唯一自分に救いの糸を垂らしてくれた秀長の申し出を断るわけにはいかない。そのようなことに思い悩まされているといつの間にか朝日が昇っていた。
この日高虎は予定がなく休みであった。早朝から屋敷で一人で思いに耽っていると、思わぬ来客があった。
「高虎はおるか?」
秀長であった。秀長が家臣の屋敷を訪れることが珍しいということは家臣団の中の周知の事実であったこと、そして返答を未だ用意できていなかったことが重なった高虎は動揺した。
「申し訳ありませぬ!未だ妻を迎える決断はできておらず」
「いやいやそんな話ではない。」
「ではいかなる御用向きにございましょうか。」
「いやそなた今日は出資の予定がないであろう?私も今日はやらねばならぬ仕事も少ない故ともに鷹狩りにでもいかぬか、と思ってな。」
「秀長さま鷹狩りなどするのですか?」
「あ、あぁす、するさ!」
本当は一人で考えに考える一日にしたかった高虎だったが、断るわけにもいかず、鯵山峠に鷹狩りへと向かうことになった。
高虎はおろか秀長も供の者を一人も連れていなかった。これはまさしく二人きりの時間が続くことを示していた。
鷹狩りも終盤に近付くころ、秀長が高虎に語り掛けた。
「妻というものはそなたが思っているほど難しいものではない。無策しい屋敷に一輪の花が力強く咲く、それだけのことよ。その花と一人の武士が互いに思い合い、薄墨の日々を鮮やかに変えていくのが夫婦というものだ。」
秀長の諭すような言葉に高虎は、山肌を眺めて深い息をついた。それを横目で見た秀長は言葉を重ねた。
「そなたは一人で背負いこみすぎた。このままではそなたの世界は漆黒の一色に染まって、二度と彩りが差し込むことはなくなる。それでも良いのか?」
高虎の頭にある言葉がふいに浮かんだ。“人はみな弱い”。兄の言葉だった。その言葉が何年もの月日を重ねるごとに形状を変えながら高虎の胸に刺さり続けていた。その言葉が再び形を変えたのを感じた。
自らの弱さを受け入れずに一人で悩み続けることは、この言葉、信念を裏切ることに相違ない。高虎は気がついた。
翌月高虎は妻を迎えることになった。相手は丹後国の大名一色家の同族一色修理大夫義直の娘ひさであった。色白く、初対面から高虎は受け入れて優しく寄り添うまさに“できたおなご”であった。その温かみに高虎は母のことを思い出した。
祝言は有子山城下の高虎の屋敷で盛大に執り行われた。良勝をはじめとした藤堂家臣団に加え、近江から高虎の両親も駆けつけた。高虎と両親の対面はおよそ八年ぶりのことであった。
たくましく成長した高虎をみて涙を流す両親の姿を見て、高虎も思わず涙を流した。自分が自分なりに精一杯の成長を遂げること、それが高虎にできる最高の親孝行であると思っていたからだ。
自分の弱さを受け入れ、支えてくれる人々の存在を受け入れ始めたことで、高虎の新たな可能性の扉が開いたことを秀長は確信していた。新たな試練を高虎に与えることを決め、近江国国友村へと向かったのだった。
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