第25話 阿閉貞征の覚悟

 山本山城城主阿閉貞征は、すでに八十を超える老将であったが、心身ともに健康体そのものであった。しかし、新たに身を託した天下人織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたという報には、心身ともに激しく痛めたようであった。一人自室に気籠もり、誰にも会おうとしない時間を過ごしていた。

「父上、明智日向守殿からの使者が参っております。」

 部屋の外から声をかけたのは貞征の子貞大であった。

「分かった。客間へ通しておけ。」

「かしこまりました。」

 

 貞征は迷っていた。すでに京と安土を押さえ、阿閉領のすぐ近くまで迫っている明智方に味方すべきか。はたまた備中から人間離れした速度で畿内へ戻ってきている羽柴方について挙兵し籠城するか。それとも旗色を明らかにせずどちらか一方の天下が揺るがぬものになってから態度を明らかにするか。それ以外にもとりうる策は無数にあったが、一人で部屋に籠もる時間でこの三つには絞っていた。しかしここから実際に行動へ移す一つを選ぶのにはためらっていた。この判断が家の存続にかかわる一世一代の者であることは、八十年もの人生経験から察することができるものであった。

 また、貞征の決断が遅れていたのは、一生の主家と誓っていた浅井家が滅亡するに際して早めに織田家につくという一か八かの判断が結果として功を奏していたという実績が直近であったからであった。ときには自らの信念を曲げてでも家と、そして自らの崇める浅井備前守長政の遺志を守るために覚悟を決める重要性を理解していた。十年以上経っても貞征守るべきものに何ら変化はなかった。


 客間へ向かう道でも心は揺れ続けていた。客間には鬼気迫る表情の男がいた。

「阿閉淡路守さま、お初にお目にかかりまする。某、明智日向守は家臣溝尾庄兵衛茂朝でございます。此度は淡路守さまにわが主にお味方いただきたくまかり越しましてございます。」

「溝尾殿、よう参られた。なぜ儂に味方に付いてほしいのか、それだけ教えていただけぬか?」

 茂朝は、一瞬口ごもってから答えた。

「それは、、淡路守さまは浅井の時代から近江の中で随一の力を持たれており、わが主もその力を信じておりまする。」

嘘である、と貞征は分かった。他の近江の有力な将に断られたからここに来たんだろうと、茂朝の表情と目に下にできたクマから気付いたのだ。


 貞征は決断した。残り短い人生、誰にも期待されてないならこの命くらいなら懸けてやろうと思った。

「溝尾殿、そなたの主にお返事いたそう。わたしは貴方にお味方しよう。しかしこれは阿閉家の判断ではない。これは私だけの決断である。もし阿閉家全体を動かしたいと考えるならば、ここにおる貞大に頼んでくだされ。」

 貞征は立ち上がり部屋を出ようとした。しかし、貞大が呼び止めた。

「父上!お待ちください!私には決められませぬ!」

「そなたはもう五十であろう。これよりはそなたが阿閉家の主だ。儂とともに日向守さまにつくか、それとも敵となるか。しっかりと考えて溝尾殿に返事いたせ。」

「つきます!」

「なに?」

「私も父上と共に日向守さま方につきまする!」

 貞征が複雑な表情を浮かべる中、茂朝が会話に入り込んできた。

「ありがとうございまする!主も喜びまする!」

茂朝は合力の確約を得ることが出来たため、すぐさま城を出た。


 貞征は自らの決断を悔やんでいた。本音を言えば息子には羽柴方についてもらい、確実に家を残して、亡き長政の想いを守っていくという手段を取るべきだと思っていた。しかし、貞大に意図を伝える前に茂朝に話を切り出してしまったことで、貞大までもが明智方についてしまった。息子の判断力を過信した自らの落ち度であると思った。

 後悔もつかの間、状況はどんどんと変わっていった。光秀の命を受け、中国から撤退してきている羽柴秀吉の本城長浜城を攻めることになったのだ。城代として堀秀政が置かれていた長浜城であったが、城兵のほとんどが中国攻めに動員されており、攻め下すことは容易であった。しかし、羽柴一門の人質を取ることが出来なかった。この時点で貞征の運命が決まってしまったのだった。


 その後、阿閉親子は京へ入り光秀と合流した。

「阿閉殿、此度は合力いただきかたじけない。真のことを申せば、我らに味方してくださる諸将が少なく、そんな中で手を差し伸べてくれた恩、言葉にできませぬ。」

「ありがたきお言葉。八十を超えたこの老体にムチ打ち、命尽きるまで日向守さまの目指す真の天下のために励んでまいりまする。」

 貞征は周りを見渡した。そこには明智の家臣以外では若狭武田家当主武田元明くらいしか参陣していなかった。貞征は目を瞑り、唇を強く噛みしめた。


 山崎に進軍した明智軍は、羽柴勢に天王山を奪われ、防御一辺倒の戦いを強いられることになった。布陣した御坊塚の地で行われた軍議は、大きく意見が割れ紛糾した。不利と分かっていても攻撃を仕掛けるべきという松田政近や伊勢貞興ら明智譜代の臣と、できるだけ動きを見せずに敵の隙を伺う策を推す貞征や元明ら新参の者らで完全に割れた。光秀はその軍議に口を挟むことなく、黙って目を閉じたままである。見かねた側近の藤田伝吾が光秀に決定を仰いだ。

「殿、ご決断を。我らは必ずや勝ちまする。勝つための一手をお決めいただきたい。」

「うむ。」

光秀は口を開いたが、その言葉の端々には長めの間が含まれていた。

「阿閉殿の策をとる。我らは決してこの地から動かぬ。しびれを切らした秀吉が動いた時、その時が好機。一斉に叩く。」


 光秀の言葉で策は定まってように思われた。しかし、明智軍の士気は低く、光秀の直臣でさえ光秀の言葉を守ろうとしなかった。軍議から一日と経たない頃に事件は起きた。羽柴方の中川隊・高山隊の挑発に乗った松田隊が羽柴方に攻めかかったのである。後方にいた伊勢隊・斎藤利三隊もそれを追い、明智勢は完全に分断された。

 本隊を守る御坊塚の最前線に阿閉家の陣はあった。そこに機を見計らっていた羽柴勢が一斉に突っ込んできた。陣は大混乱。千ほどいた阿閉兵も散り散りに離散し、貞征の本陣も危険にさらされた。陣幕が開き入ってきたのは見覚えのある大男であった。


 貞征が生涯の主と決めた浅井備前守が自分に託した藤堂高虎であった。お互いに刹那に顔を見合って硬直した。しかし直後に高虎は鬼気迫る表情を浮かべ槍を握り直して貞征の方へと突っ込んできた。

 その理由がわかるまで時間は要さなかった。自分は形式上家臣であった高虎を裏切り、捨て、命まで狙った大悪党であったのだ。高虎が自分に強い恨みを持つのも無理はない、いや当然のことであると貞征もわかっていたのだ。

 そうはいっても悔しかった。あくまでも自分は長政の想いを守るため、そして高虎の未来を案じてあれから生きてきた。そんな高虎に槍を突き立てられている事実がやりきれなかった。

「阿閉淡路守さま。お久しゅうございます。お世話になりました藤堂与右衛門高虎にございます。」

「噂聴いておる。秀長殿の元で元気にやっておるようだな。」

「御命を奪うことは私の一存ではできませぬ。わが主に判断は任せまする。誰か!この者を殿の陣へお連れせよ!」


 秀長は陣へ連れられてきた貞征を見て頭を抱えた。そして人払いをし、二人きりで語り合い始めた。

「阿閉殿、どうしてかようなことに、」

「これも運命よ。」

「必ずや助けて見せまする。まだあなたには成してしていただかなくてはならぬことが山のようにございまする。」

そのような配慮は一切不要。儂はここらでこの世を離れ、空から主と共に皆様を見守りましょう。これが“爺”になった儂にできることにございます。」

 秀長は言い返せなかった。貞征を助けることが非常に困難であると分かっていたからだった。

「本当に、本当に申し訳ない。」

「謝らんでくだされ。ただ、最後に願いがござる。」

「なんでも言ってくだされ。」

「儂が死ぬとき、切腹でも貼り付けでも何でもであるが、最後に信の臓を止めるのを高虎にお願いしたい。」

「なんと、、」

「それが彼にとっても一つの区切りになると思うのだ。空の上の長政さまもそう望んでおられると思うのです。」

「分かりました。善処いたします。」


 山崎の戦いは終結した。謀反人とされた明智光秀、そして重臣らは悉く討たれ、その首は三条河原に晒された。貞征もその時が迫っていた。刑の方法は磔であると定まった。これは貞征が最後まで槍を刺す高虎と顔を合わせていられるようにという秀長の配慮であった。高虎は恨みを込め、力強く槍を貞征の左胸に突き刺した。

 覚悟を決めた“小心者”高虎像の生みの親、阿閉貞征の長い生涯が終わった。最後まで勘違いされ続けた真の忠義者は、笑顔で悔いなく人生を終えたのだった。

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