第54話 絶望の淵

 それから二年間、特段秀吉が秀次の関白職に対して干渉しようとする動きはなく、“拾”と名付けられた秀吉の二人目の男児は両親の凄まじいほどの寵愛を受け順調に成長していた。拾の成長と反比例するように秀次の心境は苦しいものになっていくのだったが、弟秀保や自らの子、そして藤堂良政ら大切な家臣の支えを受けて何とか心の平静を保っていた。

 高虎の主秀保は十六歳となり、文武に秀でた立派な武士に成長していた。実の子ではないながらも、太閤秀吉の天下取りに貢献した名君秀長の面影を感じた家臣団はさらに忠誠心を深めていた。当然その秀保の兄である関白秀次に対しても深い忠義の心を抱く者が多かった。

  

 文禄四年四月、春の陽気が終わりを迎え薫風が吹き始めたこの頃、畿内での藤堂家の役割を一時的に甥の高刑に任せた高虎は、所領粉河に戻ることにした。粉河には高虎に代わって統治を担ってきた良勝と居相政貞に加え、妻のひさも残って暮らしていた。このころの大名の妻というのはそのほとんどが大坂や京といった豊臣政権の中心地に人質のような形で半ば強制的に住まうことが多かったわけであるが、田舎育ちで煌びやかな畿内の空気が合わないというひさの思いを汲んだ高虎が、秀長を通して秀吉から所領で暮らす許しを得ていたのであった。秀吉の秀長・高虎に対する強い信頼が伺える裁可であったが、秀長がこの世を去って四年、ひさも畿内に住むようにと命が下りたのであった。ひさを迎えに来たというのが高虎の所領帰還の第一の理由であった。

「長らく寂しい思いをさせてしまい申し訳ない。秀長さまがお亡くなりになられてからというもの、畿内から離れることが出来ずでここに戻る一時の猶予もなかった。」

「良いのです。ここに残りたいと我儘を申したのは私なのでございますから。それにあなた様の活躍はここにも当然入ってきております。良勝どのも、ここに残っておられる皆様方喜んでおられましたよ。」

「それはなによりだ。だが、ついにそなたも大坂へ入らねばならなくなった。秀吉様に直接命を取り下げていただけるようお頼みしようとしたのだがそうもいかなくてな。力不足で申し訳ない。」

「いえいえ。いくら田舎者の私と言えども、そろそろ都会の空気に触れてみたいとも思っておりました故。また貴方さまと暮らせるということも大変喜ばしく思いますよ。」

「そう言ってくれて助かる。」

「しかし、なぜ太閤殿下は急に私などに目をつけられたのでございましょうか?お拾さまがお生まれになって早二年。大名である方々に対する警戒が強まったということなのでございましょうか。」

 高虎は困惑したような表情を浮かべた。

「いやぁ、良く知っておるな。しかし、私も殿下の側近である石田治部に聞いてみたのだが答えてはくれなんだ。ただここで殿下の気を立ててしまうのはよろしくないというのは事実であろうな。出発は二月後の六月とするで、それまではここでともにゆるりと過ごそうではないか。」

「あら。そんな時の余裕があるのでございますか。」

「うむ。畿内のことは高刑に任せてきたで案ずることはない。そなたはまだ会うたことはないと思うが立派な甥だ。」


 それから数日後、普段の癖で早起きしてしまった高虎は、自室で良勝に任せてきた検地に関する書類の確認を行っていた。そこへ政貞が真っ青な顔をして走ってきた。常に冷静沈着で変化させることの少ない政貞のそんな様子に高虎は驚いた。

「と、と、殿!」

「政貞いかがした!そなたがそんな様子なのは珍しいな!」

「そ、そ、それが!」

「何があった!はっきりと申せ!」

「ひ、ひ、」

「ひ!?」

「秀保さまが、ひ、秀保さまが大坂でお倒れになったとのことにございまする!」

「な、なんだと!?」

 高虎は戦慄した表情で立ち上がると力強く戸を開け馬に跨り大坂へ駆けて行った。


 大坂にある秀保の屋敷についたころには、その入り口に多くの家臣らが集結していた。彼らは高虎を見るやぞろぞろと道を開け、高虎を奥へと通した。そこには羽田正親や横浜良慶、桑山重晴といった長く秀長と秀保に仕えてきた諸将が並んで座っていた。その多くが肩を悲しみで震わせながらなんとか着座しているように思われた。その奥に、顔に布をかぶせられ、物を言わぬ秀保の亡骸が横たわっていた。

 高虎は全身の力が抜けたようにその場でがっくりと膝から崩れ落ちた。一生尽くすと誓いながらも早逝してしまった秀長に代わって、この世を平らかにするために力を尽くせると思っていた秀保がこうも早く目の前から消えて行ってしまった。その悲しみと無力感に襲われたのだった。秀長が今際の際に高虎に遺した思いを、図らずもかなえられなかったことに心底落胆した。これ以上自分が生きていく未来が見えなかった。


 さらに高虎に追い打ちがかかった。太閤秀吉が甥でもある秀保の死を悼む素振りすら見せないまま、その葬儀を“密葬”として済ませてしまったのである。秀保の亡骸を見つめる秀吉の目の奥に、ニヤリとほくそ笑むような雰囲気を高虎は感じ取った。もう秀吉の暴走を止められるものはいない。そう確信した高虎は、多くの者が秀吉や秀次の直参の家臣となる中、その後の身の振り方を表明せずにいた。

 そんな高虎を説得すべく、秀次の次期さんとなった羽田正親が高虎の屋敷を訪れた。しかし、そこには高虎の姿はなく、一つの置手紙が遺されていた。


―万策尽き果て、某の居場所はどこにもありませぬ。藤堂家のことは万事粉河にいるわが従弟藤堂良勝に一任いたしまする。某、これよりは高野山へ上り出家し、殿と大殿の冥福を祈ることにこの一生を捧げまする。―

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