第23話 中国大返し
一人目の天下人、織田信長が本能寺にて命を落とした天正十年六月二日。羽柴兄弟率いる中国攻めの織田軍は備中高松城を水攻めしている最中であった。城の救援にやってきて城の西の岩崎山に布陣した二万の毛利軍も、織田軍の数と城の周りに出来上がった壮観な湖の前に動けずにいた。
にらみ合いが続く中、さらに二日が立った六月四日未明。秀長の陣の横を走り抜けていく怪しげな影を見た者がいた。高虎の家臣であり、伊賀流の女忍者シュウであった。殺気を消し、走り去った影を追いかけた。そしてついに追いつき、その肩に短刀を突き刺した。刺された男は膝から落ちシュウの方へ振り返った。
「な、なにをする!」
「それはこちらのセリフだ。どこへ向かっていた?」
「言えぬ!言えんのだ!」
男の声は震えていた。それに気づいたシュウは声色を変え、優しげに対応した。
「そなたの通った陣は羽柴筑前守さまが弟秀長さまの陣である。そなた誰かに脅されておるのだろう?困っておるなら助けてもらえようぞ?」
男が迷っているのはその目の動きから明らかであった。
「た、助けてくれるのか?」
「あぁ。」
「どのようにして助けるのだ?お前は忍だろう?」
「私は秀長さま肝入りの家臣藤堂高虎が直臣である。高虎を通して秀長さまに助けを乞うことが出来る。」
男は観念したのか、ため息を一つつき、素性を明かし始めた。
「某は明智家家臣藤田伝八郎。わが主明智光秀が京の本能寺にて織田信長を討ったため、毛利殿に助力いただきたく使者として岩崎山に向かっていた次第。」
事情を吐き出させるまでの流れはすべてシュウの狙い通りだった。
「そうか。それが聞けて助かった。あの世で秀長さまが助けてくれよう。」
「な!何をする!た、助けるといったではないか!や、やめろ!」
シュウは伝八郎の首筋を切り裂いた。伝八郎は倒れ、そのまま事切れた。
「すまないな。これが忍のやり方なんだ。」
忍のやり方を嫌悪し、忍として生きることをやめようとしていたシュウであったが、高虎のために自分ができる最善は何か考えた挙句、ついには忍として生きることに誇りを持つようになっていた。あくまで自分のためではなく高虎のため、高虎の目指す天下のために忍をしているんだという自覚がシュウを掻き立てていた。
シュウは伝八郎の亡骸を背負い、急ぎ高虎の陣に入った。
「高虎!高虎はいるか!」
陣の奥から目をこすりながら高虎が現れた。六尺あるはずの身体もまるでその半分ほどしかないように思える覇気のなさであった。
「なんだシュウ、こんな朝早くに。その男は誰だ?」
「こいつはもう死んでいる。毛利方の陣に向かっているのを捕らえ、尋問した上で殺した。」
「こいつは何を市に毛利の陣へ向かっていたのだ?」
「聞いて驚くなよ。こいつは明智の家臣。今日の本能寺にて信長さまを討ったから毛利に協力を求めたいということだそうだ。」
「な、なんと、、。それは真のことなのか?」
「かような文まで持っておったゆえ真のことだろう。」
「そ、そうか。ならば急ぎ秀長さまに伝えてまいる。」
高虎は秀長の陣に入り秀長に事情を伝えると、秀長は兄秀吉に仔細を伝え、急遽早朝六時に軍議が開かれた。高虎も情報を得た人間として軍議に加わった。秀吉は神妙な面持ちで話し始めた。
「御屋形様が京の本能寺にて奸臣明智日向守めに討たれてしもうた。じゃがこのこと決して誰にも漏らしてはならぬ。皆々の兵にでもや。」
軍議に加わっていた諸将は黙ったまま小さくうなずいた。それを見て秀吉は続ける。
「我らは御屋形様の信頼厚い第一の軍じゃ。すなわち我らが御屋形様の仇討ちを行わねばならぬわ。これより我ら陣を払い畿内へと戻る。」
諸将は力強くうなずいた。
「秀長!」
「はっ。」
「おみゃあには毛利方にこの情報が知れぬよう西への道を完全に封鎖することを任せる。」
「かしこまりました。」
「官兵衛!」
「はっ。」
「おみゃあは急ぎ毛利方と交渉をいたせ。向こうの出す条件をのみながらできるだけ早くまとめてくれ。じゃが決してこちらの異変を感づかれてはならぬ。」
「承知いたしました。」
「佐吉!そして、高虎!」
名前を呼ばれると思っていなかった高虎は驚いて少し跳ねた。そして共に名を呼ばれた三成と目を合わせた。
「あみゃあらにはこの三万の大軍ができるだけ早く畿内へ戻るための陣ぶりと兵糧・武具の支度を任せたい。これは責任重大だがそなたらにならできると信じちょう。頼んだぞ。」
「はっ!」
二人に返事のタイミング・トーンは完全に一致した。
その日のうちに黒田官兵衛は毛利の外交僧安国寺恵瓊と交渉を行い、備中高松城の会城及び織田家と毛利家の和睦がまとまった。秀吉でも想定していなかったわずか数時間でのスピード決着であった。これは毛利側が高松城の救出が困難と考えて和睦に傾いていたという状況もあったが、天下に聞こえた軍師黒田官兵衛の真骨頂ともいえる交渉術によって導かれた結果であることは間違いないものであった。
その間、三成と高虎は陣払いの支度を済ませ、部隊の動きの計画まで二人で完璧に煉り合せた。二人はまさしく阿吽の呼吸であり、秀吉と秀長が措定した以上の相性であった。
日が変わって六月四日辰の刻。備中高松城の守将清水宗治は小舟に乗り、本丸の外にたまった水の上にこぎ出した。水上で、曲舞を舞い納めた後に切腹し、その死を確認した秀吉は退却を指示した。世に聞こえた「中国大返し」の始まりである。
全速力で走り続け、翌日には秀吉本隊が沼城に到着し、宇喜多勢を除いた約二万五千はさらに東へと走り続けた。三日三晩は知り、八日には中国攻めのために秀吉が本城姫路城へと帰着した。しばしの休息の間に高虎は秀吉に呼び出された。
「高虎よ、おみゃあの実力は聞いておった以上や。秀長も誇らしいことやろうて。」
「ありがたきお言葉にございます。」
「おみゃあと共に励んだ石田佐吉は家中でも一番くれぇの曲者じゃが、そんなあやつと手を取り合えるおみゃあはまっこと立派な武士や。佐吉は周りにて敵を作りやすいやつだで、あみゃあがしっかり支えてやってくれ。御屋形様亡き今我らが天下を支えねばならぬ。その核となるのはお前さんら二人や。これからもたのむでな。」
「もったいなきお言葉!これからも励みまする!」
秀吉に面と向かって褒められるのは初めて出会った。秀長から褒められる時とはまた違った、深みのある喜びが心の奥底から湧き出るのを感じた。
秀長の方を見ると優しげながらも、ニヤリと企みのある笑顔を浮かべてこちらを見ているのが分かった。秀吉を兄として以上に主として慕う秀長なりの最大の賛辞であった。
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