第6話 天降る神

 鈴の音に、皐月の空に葦野原。


 居祈いおりは瞬時に悟った。彼の神社で祀る神が今ここに降臨したのだ。


 これまで幾度もしてきたように正中を退いて正座する。両膝を揃えた時、地面にまだあの蛇たちが伸びたままなのに気付いて素早く懐に突っ込む。こういうとき着物は便利なものだ。


 どうやら神は道の先のあの大岩へと降臨したらしい。このように両手をつき頭を下げていると姿は見えないが、余りある神通力が磁力のように作用し、威力が増していくのをひりひりと肌で感じる。こめかみに汗がにじむ。


 居祈は地上で八百万やおよろずの神に遭遇することは間々あったが、祠ではなく神社に祀られるような格式のある神には直接会ったことがない。そうした神々は天界にいて滅多なことでは降臨しないものだ。


 これは居祈にとって瓊瓊杵尊ニニギ(天照大御神の孫)の天降りに立ち合うかのような、とんでもない出来事だった。


 居祈は神を畏れていた。それは一般の感覚とは少し違うのかもしれない。今の現世うつしよにおいては、神も神社も人の願いを叶えるために存在しているようなものである。しかし、それは仏教が伝わって以降のことであって、古来、日本の神は災悪の元。


 天変地異を引き起こし、雷や洪水、不作による飢饉、時には地を揺がし津波を起こし、疫病を流行らせる。人々は自然の脅威を畏れて祠を立てたり供物を捧げたり、神として祀ることで鎮めようとした。


 居祈の感じる畏れは、現代よりもいにしえの時代のそれに近かった。緊張で肩が強張る。一方、皐月の空に舞い降りた神は底知れぬ神通力をつゆも隠そうとはせず、周囲の葦の葉をざわめかせながら、からん、ころん、と風流に下駄を鳴らして、もうすぐそこまで近付いてきていた。


 息が詰まる。苦しくて死にそうだ。


 視界に下駄の雅な鼻緒が映って止まる。ああもうだめだと思った瞬間、天女の声が降ってきた。


「御前、死ぬ気か?」


 その声ひとつで幾千の花が咲いても不思議ではない。声を掛けられたことに動転して天を仰ぐ。そのとき久方ぶりの息を吸った。いつの間にか息を殺していたのだ。


 声をかけてもらわなければ死んでいたかもしれない。既に死んだも同然のこんな状況にあっても、生きている感覚はすぐに抜けるものではないらしい。命の感覚は依然として体に染みついたままだった。


 振り仰いだ神は、葦翠の名に似合いの色を着流して、なだらかな肩に芍薬しゃくやくの花が絢爛に織り込まれた、見事な羽織を纏っていた。亜麻色の長い髪は、束ねることさえしていないから、風に吹かれて絹糸がなびくようである。すいと目を惹かれて見れば、女にしては凛々しく男にしてはやわらかな面立ちで、よく見ると誰かに似ているような気がした。


 つ、と目が合い、本来なら目を触れるのも憚られる存在を凝視していたことに気付いた。咄嗟に下を向こうとするも、葦翠神の細い指がそれをさせなかった。葦翠神はやや屈んで居祈の顔を覗き込む。


「その瞳、衣神きぬがみのの。誠に居祈か?」


 居祈は当然この神の名を知っていたが、神が自分の名を知っているとは思わなかった。居祈は返事をしようと「かけまくもかしこき(声に出して言うのも畏れ多いのですが)」と、咄嗟に聞き覚えのある祝詞の序文を述べて、すぐに言葉に詰まった。なんと言えばよいのか分からないのだ。願い事をするわけではないのだから、通例にしたがって「かしこみかしこみもまおす(恐れ多くも申し上げます)」で終わるのは変だ。いつもの落ち着きつき払った居祈らしくなく、おろおろ動揺してしまう。


 すると、神は羽織の袖で口許を隠してふふと笑う。


「無理をせんでもよい。私とて天界の田舎者。正しい言葉遣いなど知らぬわ」

「田舎者――あなた様が?」

 問いながら居祈は思い出した。葦翠神は居祈の里の氏神である。今まで感じたことのない神通力に大神と重ねてしまったが、景色を一片塗り替えて、一陣の風を起こすことくらいは氏神でもできるということか。


 葦翠神は「私を一体誰だと思ったのだ? 大御神おおみかみ様とでも思ったか?」と居祈を揶揄いころころ笑う。

「それはさすがにありませんが」

 居祈はなんだか急にこの神が身近に感じられて、安堵したような、どっと疲れが生じたような気がした。


「そんな顔をしてくれるな。この日を待ち詫びて幾星霜いくせいそう。やっと御前に会えたのだから」


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