第6話 天降る神


 鈴の音に、皐月の空に葦野原――。それは話に聞いたことのある、居祈の里のかつての景色を思わせた。居祈いおりは悟った。今このとき、葦翠神社に祀る神、葦翠神が降臨したのだ。

 居祈は正中を退き、正座して頭を下げる。そのとき地面の目先に三匹の蛇が伸びたままなのに気が付いて、咄嗟に懐に突っ込んだ。こういうとき着物は便利でいい。

 大岩の方から一直線のこの道を、まだ見ぬ神が歩み進む。居祈の里に人が住み始めてから数百年。余りある神通力に押しやられるかのような力を感じる。威力が増していくのを肌で感じ、こめかみに汗がにじんだ。居祈は人の世でこれほどの大物に出会ったことがない。


 神社で生まれ育った居祈が神に対して抱く畏れは、現代よりもいにしえの人々のそれに近かった。皐月の空に舞い降りた神は葦の葉をざわめかせながら、からん、ころん、と下駄を鳴らして歩みを進める。もうすぐそこまで近付いてきていた。


 居祈は緊張で肩が強張った。息が詰まる。もう、苦しくて死にそうだ……。


 視界に下駄の雅な鼻緒が映って止まる。ああもうだめだと思った瞬間、頭上に声が降ってきた。その声ひとつで幾千の花が咲いても不思議ではない。そんな美麗な声だった。


「御前、死ぬ気か?」


 いつの間にか息を殺していたことに気付いて、思いきり呼吸する。


「あ、ありがとうございました……。お声をかけてもらわなければ窒息していたかもしれません」

「そうか。声をかけて良かった。こんなところで人に死なれては困るからな」

 葦翠は居祈に手を差し伸べ、顎をくいと持ち上げる。居祈は思わず神の姿に目を触れた。居祈を含め衣神家が代々奉仕してきた氏神は翡翠の玉のように美しい神だった。涼やかな顔立ちで、女神か男神かすぐには分からなかったが、ふと笑みを浮かべた表情は優しく、着物は女物だった。葦翠の名に似合いの着物に、揃いの色の長羽織には大輪の芍薬しゃくやくが見事に咲き誇っている。亜麻色の長い髪がそよ風に靡いて、絹糸の束を解いたときのようにさらりと広がる。居祈の瞳を覗く薄茶色の瞳は、清水の川底のように透き通り、心の中まで見透かされているような気がした。

「あの……掛けまくも畏き葦翠神様……」

「そんな堅苦しい。葦翠でいいよ」

「そういう訳にはいきません。では、葦翠神様。ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」

「聞こう」

「あの、私は死んでいないのでしょうか」

「ああ、お前はまだ死んでないよ」

 まだ、ということは、現では死にかけているのだろうか。

「その瞳、御前は衣神の居祈だね」

「はい」

 さすがは氏神。里の民を一人一人覚えているなんて。

「あの凄惨な夜から幾星霜。どんなにこの日を待ち詫びたことか。約束を果たしてくれて嬉しく思うぞ、居祈」

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