第4話 奇妙な文字
しばし追憶に浸ったあとで、葦翠は双子の巫女の方を見て眉尻を下げた。
「あの時は其方たちにも悪いことをしたな。衣神があんなことになってから、私は其方たちを社に残して一人天界へ舞い戻り、幾世も帰らなかった。私が留守の間、息災であったか?」
急に水を向けられて、巫女姉妹はきょとんとした顔を見合わせ互いに覚えがないことを確かめる。姉の葉が丁重に口を開いた。
「畏れ多くも葦翠様、私共をどなたか別の方とお間違えではないかと。私共は確かにこの社に長くお仕えしておりますが、何世代もということはございません。人は一代の命なのですから」
「人だと――?」 葦翠は耳を疑い「其方たちは私の」と、言いさして止めた。
二人の困惑顔から見て取るに、巫女たちは心から自分を人だと思っているようだ。二人の話を傍で聞いている珠名にも驚いた様子はない。珠名も二人の言うことを肯定しているということか。もしや、珠名も自分が人だと?
しかし、そんなはずはないのである。葉と澪は、葦翠が社に祀られた頃からの葦翠の眷属であり、珠名もまた、初代衣神の使役する妖怪なのだから。
葦翠は黙考した。
(なぜ彼女たちは自らの正体を誤認しているのだろうか。衣神が死に、私が天界に昇ったあと、この者たちに一体何が起きたというのか。まさか本当に別人ということはあるまいに)
真実を確かめたいが、自分を人だと思っている者に、其方は妖怪だ、などと言っても返って事を悪くするばかりだろう。
(そうだな。まずは自分が間違っている可能性をつぶすところから始めるとしよう)
葦翠は巫女に筆と紙を求め、筆ペンと半紙を受け取ると、さらさらと絵のようなものを書き始めた。つらつらと数行書き連ねて筆を置き、半紙を掲げて聞いた。
「これには何と書いてある?」
円と線と丸を組み合わせた記号が並んでいる。珠名は、あ、と口を開いた。その記号は覚えている。倉で見つけた螺鈿の箱、その中に祝詞と併せて納められていた文に、類似の記号が書いてあった。
珠名には何かの暗号に思えて、『これが解けるか』というつもりで巫女たちに聞いたのに、巫女たちはまるで文字のようにすらすらとそれを読んだので、なぜ神職の自分に読めないものを、巫女たちが読めたのかと若干屈辱を覚えたのだった。
今度もまた同じである。
珠名は巫女たちの反応を窺う傍で、二人は身を乗り出して叫んだ。
「「その通りです! どうしておわかりになったのですか?」」
「やはり。其方たちにはこれが読めるのだな」
葦翠が書いた記号はカナカムイ文字といい、天界で用いられる仮名のようなものだ。円の数、直線の入り方、丸の位置の異なる記号で基語と呼ばれる一五四文字を表す。葦翠は神界の者にしか通じないこのカナカムイ文字で、こう書いたのだった。
『葉には右の項に葦葉の痣があり、澪には左の項に雫の痣がある』
巫女たちがこれを読めることを確認し、葦翠はもう用が済んだとでもいうように半紙を折りたみながら言った。
「知っているのは当然のこと。其方たちは私が祀られし時に献上された葦葉と一滴の露から生まれたのだから」
葦翠が巫女たちの出自を口にした瞬間、パリンと薄いガラスの割れるような音がした。葦翠がそれを聞いた。珠名も聞いた。その音は
双子の巫女が開眼の表情を浮かべて胸に手を置き、二人顔を見合わせて互いに頷く。二人は今、自分たちが本来何者であったのかを思い出した。
「「葦翠神様、私共は葦翠神様にお仕えする精霊」」
そうだ、と言う代わりに涼し気に微笑み、葦翠はしばし黙考する。
すると、珠名が細い声で言った。いつも毅然とした口調の彼女には到底似合わないか細い声だった。
「あの、恐れ入ります。私は少し気分が優れませんので一旦部屋で休ませていただけますでしょうか」
「大丈夫か。顔色が悪いな」
葦翠が居祈の柔和な顔立ちで居祈の声で案じる。
珠名は本当に青い顔をしている。珠名は妖怪だが顔の青い妖怪ではないのだ。しかし今はそうと思えてしまう程に蒼褪めてしまっていて、立ち上がろうとしたが膝に力が入らず、前のめりに崩れてしまった。
「「珠名様!!」」
どうやら珠名は腰を抜かしてしまったらしい。
無理もない。やっと目覚めた甥が自分の執り行った儀式によって神と入れ替わりを果たし、数奇な運命により今は鬼界にいる。おまけに共に社に仕えてきた巫女たちまで人外だったとわかったのだから。
「二人とも、珠名を自室へ連れて行ってやってくれぬか」
葦翠が巫女姉妹に頼み、二人は、
「「仰せのままに」」と恭しく礼をする。
「「さあ、珠名様、私の腕におつかまりください」」
二人が珠名の左右に寄り添って言い、珠名はうんとも何とも言い難い様子で二人に支えられて部屋を後にした。
ひとり部屋に残った葦翠は、静かに考えた。
(記憶操作の術。それも、神業をこの身に残す私に悟らせない程の匠な術。誰が、なんの目的で――)
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