第3章
第1話 奇妙な音
ずるり、ずるり――
何かを引きずるような音を聞いて居祈は目を覚ました。初めは真っ暗で、目を開けたのかどうかさえも分からなかったが、頬と体が湿った土に接しているのを感じて、地面に倒れているのだということは分かった。
さっきの音が気になって体を起こそうとしたものの、全身に痛みが走って小さく唸り声を上げるに留まる。どうやら鬼界に落ちた時に全身を強く打ったらしい。今度は慌てずにゆっくり半身を起こし、背後に聳え立つ切り立った崖を仰ぐ。
視線を更に上へと向けると、空には見たことのない天体が浮かんでいた。下弦が闇に溶け、上弦が空色をしている。
恐らくあれは、天体に見えて天体ではないのだろう。天と地の狭間で月に見えたものが、月ではなく天界に穿たれた穴だったのと同じで、あれも鬼界に穿たれし穴。
あそこから落ちて打ち身だけで済んでいるのは奇跡と言っていい。やはり生身の人間の時とは違うと居祈は丈夫になった体に感心した。が、しかし。
(半端とはいえ一応神になったのに、初めての降臨で着地失敗か。幸先がいいとは言えないな)
居祈は空を見上げたまま嘆息した。
「あ……」
崖の先端に人影を見て居祈は声をもらした。着物姿に長羽織。風に靡く長い髪。一瞬、葦翠が心配して鬼界の様子を見に来たのかと思った。けれど違う。葦翠は今、羽織を着ていない。『神を護る結界の羽織』は、居祈が今着ているのだから。
ずるり、ずるり――
まただ。またあの音が聞こえた。
気を取られて目を離した隙に、崖上の人影は消えてしまっていた。
今はとにかく周囲の状況を把握するのが先決だ。居祈は思い直して警戒し、辺りに目を凝らして観察した。ここはどうやら谷底に群生した竹林。夜空に届かんとばかりに背を伸ばす無数の竹の間を濃い霧が漂っている。音は霧の奥から聞こえてくる。
(なんの音かは知らないが、こちらの存在に気付かれる前に離れた方がいいだろう。不吉の予感しかしないからな)
居祈は打撲の痛みを庇いながら立ち上がり、音から遠ざかる方向へと歩いた。分かれ道に出たときには「神様の言う通り」で道を選び、選んだ道は不思議と正解のような気がした。
離れてみて分かったが、さっきまでいたあの場所は、相当瘴気が濃かったようだ。今の居祈の体には、臓腑を除いた部分に体腔とも呼ぶべき空間があり、そこに瘴気が燻って気持ちが悪い。
(吐きたくてもこの体じゃな)
太い竹に手をついて乾嘔していると、向こうの方から人が来る。一人ではない。二人? いや、三人。居祈は人の姿に気が緩み、一縷の希望を得て片手を上げた。が、鬼界の住人である以上ただの人なわけがない。妙な歩き方に違和感を覚え、居祈はサッと竹藪に身を隠した。
居祈は前の道を通り過ぎるその者たちをつぶさに観察した。姿かたちは人。貧相な着物を着て、
愚鈍な足取り。歩くというよりかはぎくしゃくと足を前後に動かしているだけのようだ。節くれだった長い指と異様に尖った爪を見れば、やはり鬼の類と見て間違いない。
(鬼がこんなに集まって、どこへ向かっているんだ?)
居祈は葦翠の羽織の衿を合わせ、気付かれないようにそっと最後の一行の後をつけた。
後を付けたのには、一つ考えがあったからだ。崖で人影を見た時にも思ったが、鬼界は魑魅魍魎が跋扈するばかりの世界ではないのかもしれない。着物や装束が買えるなら、鬼界にも人のような営みをする者がいて、どこかに街があってもおかしくない。街に辿り着きさえすれば、天界に通じる道も探す当てが見つかるかもしれない。
やがて遠くに赤い灯りが見えてきた。だが、街という程の数はない。
(なんの灯りだ? 何かの祭だろうか)
それにしてはお囃子や賑わいの声は聞こえてこない。岩陰に身を潜め、よく目を凝らして見ると、赤い灯りは
ずるり――
今度は近い。背筋に緊張が走った瞬間、赤い提灯が二つまたたいて宙に浮かんだ。燃えるような赤い眼をした大蛇が頭を
(あの鬼たちは、わざわざ食われに集まっているのか?)
人の形をしたものが捕食される光景は見ていられない。居祈は逃げるつもりで駆け出した。途中、背の低い若竹に葦翠の羽織と取られ、取り戻そうとした時には遅かった。羽織の結界は解け、居祈の姿は鬼から丸見えだ。鬼の群れが一斉に振り返り、さっきまで愚鈍だったのが嘘のように突如として飛ぶ勢いで襲ってくる。
背を向けては駄目だ、殺られる――!
居祈は咄嗟に雪駄を踏ん張り、腰に挿した剣を抜いた。上段の構えから最初の鬼を一刀両断にすると、倒れた鬼の面が割れ、その下から絶命した鬼の形相が覗く。
どうやらこの鬼たちは生きる屍の類。面には腐臭を消す効果があるらしく、外れると臭いで殺されそうになる。骨と皮だけのしなびた腕が次から次へと伸びてきて、尖った爪が居祈の皮膚をかすめる。致命傷を受ける寸前、居祈はひらりと身を躱し、無数の腕が宙を掻く。そこをすかさず剣で薙ぐ。これまでに何体切ったのか、肩で息をする頃には剣の刃はこぼれて使い物にならなくなっていた。
(元は黒龍の汗で出来た剣。それにしては長くもった方じゃないか)
居祈は剣を捨て、最後の鬼の腹に鞘を突き立て一戦を終えた。
汗の似合わない顔を白装束の袖でぬぐい、ふぅと息を吐く暇もなく、今度は背後にただならぬ気配を感じた。居祈が振り仰ぐと大蛇が大口を開けて襲いかかるところだった。
(なんかさっきも、こんなことあったよなあ?!)
しかし今度は天地の境で襲ってきた小蛇と比べ物にならない。剣は使い物にならず、鞘では短すぎて届く前に殺られてしまう。
「く、ここまでか!」
居祈は一瞬で九死に一生を得る秘策を講じなければならなかった。百パーセント人間だった頃の居祈なら間違いなく死んでいるところだが、半分とはいえ今は神。今ならできることが一つある。
「これでどうだ!!」
居祈は鞘を一張の弓に変え、懐に手を突っ込んだ。まだ一匹残っていた黒蛇を一本の矢にしてつがえ、大蛇の赤く柔らかい喉を狙って弦を力の限り引き絞り、放った。
矢は大蛇の喉に突き刺さり、大蛇は大口を開けたまま顎を閉じられなくなった。喉に刺さった魚の骨をどうにかしようとするかのように、かああああああああああああと喉から乾いた息を吐き出すばかりだ。大蛇がそうしている間に居祈は若竹から葦翠の羽織を取り返し、それを優雅に肩に羽織る。結界が邪悪なものから居祈の姿を消し去った。
「こんなんじゃ、いくら命があっても足りないな」
辛勝を噛みしめて衣神居祈はその場を立ち去った。その時、黒い影が一本の竹を揺らしたことに居祈は気付かなかった。
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