第2話 葦翠転命人神居祈儀


 夜明け近くに眠りについてからは変な夢を見ることなく、居祈はそれまでの睡眠不足を取り戻すかのように深く眠った。目覚めたのは夜明け過ぎ、巫女に布団を引き抜かれた時だった。転がる感覚に驚く間もなく頬に衝撃を受ける。

「いってぇ……」

 頬を摩りながら体を起こすと、同じ顔の巫女が二人、声を揃えた。

「「居祈様! 起きてください!」」

 寝ぼけ眼をこすり、欠伸をしてから言った。

「さすがに起きたよ。おはよう、玉垣の姉さん」 


 玉垣姉妹は居祈が幼い頃から神社に仕える双子の巫女である。もうとっくに四十近いはずなのに、居祈が十六になっても老けたようには見えず、今でもせいぜい二十二、三に見える。双子だけあって顔のつくりはほぼ同じ。体型も背丈もほぼ同じ。二人が巫女装束を着て一つに束ねた髪を背中に垂らすと巫女の等身大人形のようにそっくりだ。二人を見分けるには、黒子の位置という方法もあるが、目元口許の小さな点を見るよりも、もっと簡単な方法がある。喋らせればいいのだ。


「さっきからずっと起こしていたのに、まさか本当に布団を引くことになるとは思いませんでした。居祈様、もう夜明けです。手順書に従えばもう儀式を始めていなくてはならない時間です。珠名様にしかられますよ」

「手順書? 儀式? ああ……なんか昨日、珠名の妖怪が何か言ってたな」

「まあ居祈様! 実の叔母様を妖怪だなんて! 思っても言ってはいけませんよ、𠮟られます!」

「澪、あなたも一緒に叱られるといいわ。居祈様、早くお支度を」


 居祈は何が何だかわからぬうちに、禊をさせられ、恥じる間もなく裸体に白装束を着せられた。されるがままになりながら、これから行われる儀式について聞かされる。


「いいですか、居祈様。これから本殿で行われる儀式の手順を説明しますから、今よく聞いてこの場で覚えてください」

「ええ……」

 寝起きの頭と暗記はだいぶ相性が悪い。葉の説明を聞くが、その先からほろほろと記憶がこぼれ落ちていく。結局、一番最初に言われた、『本殿には右足から入ること』だけは覚えている。これは普段習慣としてやっていることだからだ。

 その後の作法は何歩でどの位置に至り、誰が何を言ったらどうするのかという細かい所作が伝えられたが、居祈はざっくりとしか覚えられなかった。それでも問題ないと思っていたからでもある。

 居祈は儀式が正式なものとは思っていなかった。これから本殿をお参りして、氏神様に誕生日を迎えたことを報告する。例年とは少し違うが、基本的には変わらないだろうと、居祈はこのとき思っていた。


「以上です。この儀式は作法が大変重要なのです。今の説明で覚えましたか?!」

「うん(だいたい)」

 居祈は寝起きから支度に追われてやや草臥れた返事を返した。

「「では、参りましょう!」」


 部屋の障子を澪が開け放ち、葉がすっと厳かに開ける。縁側に歩み出る巫女姉妹のあとに居祈がそろそろとついていく。四月の朝はまだ冷える。白装束一枚の居祈は薄ら寒いのを我慢して巫女姉妹の後に続いた。白装束を着て二人の後を歩いている自分が、なんだか幽霊にでもなったように思えてくる。


 本殿から雅楽の音が聞えてきた。でもそれが聞えるのは居祈だけで、巫女にも珠名にも聴こえていない。毎年、居祈の誕生日にやってきて雅楽を奏でてくれるのは、酔狂な妖怪たちであり人ではないからだ。


「「居祈様がお見えになりました」」


 年季の入った木製扉の前で、双子の巫女が足を止め、声を揃えた。

 雅楽の音がぴたりとやみ、静寂で神域が極まる。


 完璧に揃った足並みで左右に分かれた巫女が居祈のために扉を開ける。今度は澪までもがしなやかな手付きで姉の葉と手波を揃えた。居祈が一歩前に踏み出すと本殿に漂う白檀の香が薫る。


 居祈は左手に神棚を見て、右足で敷居をまたぐ。神棚から遠い方の足から入る仕来しきたりは、神社で育った居祈には言われるまでもない所作である。問題はその後からだ。居祈はさっき聞かされた儀式の作法をほとんど覚えていなかった。もう一度聞ける雰囲気ではなく、その場の空気が前に進むことしか許してくれない。


 神棚から延長線上に紫紺しこんの座布団が置いてあり、右手の御簾の向こうには既に珠名が端座していた。珠名は唐衣を着て紫色の袴を穿き、結った髪に官女のような釵子さいし心葉こころばをつけた正装姿。両手に紙垂しでを捧げ持ち、居祈を待っている。その後ろには参列者が二列になって頭を下げていた。参列者は二列とも見知った人外で、今年はやたら大物が揃っていた。


 こんなことは今までになかった。

 ひょっとすると冗談ではなく祀るつもりなのかもしれない。

 祀られたらどうなるんだろうと、そこはかとない不安に駆られる。


 居祈は思わず御簾の向こうに辰巳の姿を探した。だが、やはり見当たらない。珠名も巫女も辰巳のことを好かないらしく、居祈が辰巳と会うのを快く思っていないから呼んではいないのだろう。その上、辰巳は地に降りて里をひと飲みにして以来、人からも人外からも畏れられ、近付こうとする者はいない。この儀式のことを誰からも聞いていないのだろう。


 参列者には、辰巳がいない代わりに普段見ない顔があった。若白髪で柔和な顔付きの中年男性。彼は葦原という名で居祈の遠縁にあたり、衣神家が古くから世話になっている里の医者だ。他にも親族と呼べるものはいるのに、なぜ医者だけが呼ばれているのか、それもまた不安を煽った。


 居祈は正中〔本殿の中央〕に向かって歩みを進めるうちに、珠名の袴に紋様が入っていることに気が付いた。それはどう考えてもおかしかった。神職の袴の色は階級に応じて決まっていて二級の珠名は無地の紫色のはずである。その紋様も、どうやら正式な八藤丸〔藤の花で円を描いた有識紋様〕ではないようだ。御簾に遮られて詳しい絵柄までは見えないが、大輪の花であることだけは辛うじて分かる。


 この儀式は、正式なようで、そうではない。

 しかし、徒事ただごとではないのも確かだった。


「お直りください」


 珠名の合図はそこに参列していた人、葦原のために発せられた言葉だったが、妖怪たちもそれを聞いて、下げていた頭を上げた。右手の引き戸が開き、居祈を送り届けた双子の巫女がそそくさと珠名の後ろの左右につく。二人は袴を整え、御簾の向こうを見て愕然とした。二人が顔を合わせたとき、珠名の声が上がった。


「これより『葦翠転命人神居祈儀いすいてんめいひとがみいおりのぎ』を行います。儀中お手を合わせてお祈りください」


 珠名が紙垂しでを振り仰ぎ、儀式が始まった。


 始まってしまった――と、巫女の姉妹は蒼褪めた。

 

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