第3話 儀式は無事には終わらない

 ――社に祀られる者、正中にありて里の民に向かいて鎮まりて、儀式を経て神とならん


 今朝、珠名に託された儀式の書にはそう書いてあった。参列者に背を向けるのはこの儀式においては致命的な間違いなのだ。儀式を中断することは儀式の失敗を意味する。しかし儀式はもう既に始まってしまった。途中でやめることはできない。巫女の姉妹は珠名が気付いてくれることを切に願ったが、その願いは届かなかった。


『掛けまくもかしこき、葦翠神社いすいのかみのやしろの大前に、宮司衣神珠名かしこみ恐みもまをさく今し大前にまゐなはれる若人は大神の敷座しきます此の里に御氏子みうぢこ生出あれいでしより高き尊き御恵みを蒙奉かがふりまつりて身健みすこやかに心正しく生立おひたいにしへちぎりよわいになりぬ』


 珠名はこれから神として祀られる者を、それが例え甥であっても畏れ多くて直接目を触れることができなかった。瞳を臥せて、麗らかな声で天に祝詞のりとが奏上する。珠名は霊感の強い女性だった。ふいに御簾の向こうに不吉を感じて畏れながらも目をやった。珠名はそのときになってやっと居祈の誤りに気付き、不吉が煙のように居祈の体を取り巻いているのを見た。


 邪悪な者は境内に入れないはず。それなのになぜ――。


 珠名は神域を高めて不吉を祓うべく一心に紙垂を振る。しかし、今読み上げている祝詞は祓詞はらえことばではない。祝詞を奏上する心に雑念が混じり、どちらも上手くいかない。


ここを以ちて生日いくひ足日たるひの今日の御祭みまつりに事の由告奉つげまつ謝奉ゐやびまつると大前に御食みけ御酒みき海川山野の種種くさぐさの物を献奉たてまつりて拝奉をがみまつさまひらけく安らけく聞食きこしめして大神の広き厚きみたまのふゆいや遠永とおながかがふらしめたまい遠つ先祖の真心尽くして仕奉つかへし事の如く大神を尊び奉り仰奉あおぎまつりて御心の器となりて重き大き務めを深く悟りて心なおおこなひ正しく神たる道にたごう事無く身を修め社を斉へ大御里をいや栄えに栄しむべく勤しみ励ましめ給へとかしこかしこみもまをす』


 珠名は必死に祝詞を奏上したが、その甲斐も虚しく、儀式は無事には終わらなかった。


 そのころ居祈は神前に向かって端座し、手を合わせて珠名たまな祝詞のりとを背に聴きながら静かに瞑想していたが、急に腹がキリキリと痛み出し、それでも脂汗を流して堪えていた。痛みは次第に強くなり、やがて腹を抱えずにはいられなくなった。なにか体の中でプツプツと血管が切れるような音を聞き、内臓が切り取られるような激痛に呻き声を上げてついに倒れた。魂が引き抜かれるような感覚があった。居祈が最後に聞いたのは、御簾の向こうから飛んできた数々の悲鳴だった。

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