神様の鬼界で奇怪な英雄譚*神と入れ替わって天界に行くはずが鬼界に送られてしまったので鬼界経由で天界を目指します。

あしわらん

第1章

第1話 夜明け前

 もう四月だというのに今夜は急に冷え込んだ。居祈いおりは目を閉じたまま布団の中で体を丸めていた。その夜、居祈は夢を見た。これまでに見たことのない夢だ。


 その夢の中で男が白装束を着ていた。神社の社務所の裏庭の、古い井戸に背を持たれて座っている。腹が真っ赤に染まっている。男はまだ生きている。誰かが傍で泣いている。さめざめと泣いている。居祈は遠のく意識の中で、男が何か大事な約束をしたのを聞いた。


 その約束がなんだったのかは思い出せない。思い出そうとすると、すぅーっと意識が夢から離れ、目を開け空が暗いことを知る。そして眠りまた夢を見る。繰り返し同じ夢を見る。何かの啓示のように、繰り返し、繰り返し――。


 目を覚ますのは今夜これで何度目なのか、薄目を開けると障子の向こうに燈籠の灯が差していた。障子のスクリーンに柳の影が揺れている。柔らかく揺れる葉の影はしばらく見ていても飽きなかった。


 そこへ、ふいに女の影が現われた。夜明け前だと言うのに着物姿で、髪を美しく結い上げている。凛とした佇まい、すっきりとした顎の輪郭、芍薬しゃくやくかんざし。その人影は父方の叔母、珠名たまなに違いなかった。居祈は目をこすりながら半身を起こし、掛布団をはいでその場に端座した。


「珠名、どうしたの? こんな時間に。夜明けにはまだ少し早いよね」

 神社の朝は早い。しかし夜明け前は早すぎる。

 居祈の問いかけに珠名が口を開いた。

「居祈、少し話があるの。そのまま聞いてくれる?」

 珠名の声が障子紙をすり抜けて居祈に届く。

「いいけど」

 居祈は寝巻のしわを手で払い、少し乱れた黒髪を手櫛で整え、睫に掛かる前髪を首を振ってよける。

 戸が開く気配がないので「話すなら、戸を開けたら?」と聞くと珠名は、「ここでいいわ」と言い、縁側の廊下に立ち尽くす。


 居祈は珠名が遠慮するのを不思議に思うが、そこでいいというのならそれでも構わない。むしろ、珠名の話が何なのか、そちらの方が気になった。


 思い当たることがあるとすれば、今日が居祈の誕生日――ではあるのだが、祝うなら朝起きてからでも間に合うはずである。実際、これまでも毎年そうしてきた。こんな夜中にわざわざ話さなければならない話もそうする理由も全く見当がつかなかった。

 

「居祈、これからあなたに伝えることは今この時しか言えないの」

 珠名が口を開いた。

「あと少しで夜が明ける。夜が明けたら、あなたは儀式に出るの。とても大切な儀式よ。何のための儀式なのか、冗談だと思わずに聞いてほしい」

 珠名が慎重に言葉を選んで言った。

 有無を言わさぬ断定的な物言いが空恐ろしい。

「あんまり脅かさないでよ。儀式って、何のための儀式なの?」


 居祈は珠名の言葉を待った。けれど珠名の口は重かった。余程言いにくいことなのか、胸に手を当てて気を落ち着かせる仕草の影が障子に映るのを見た。珠名が小さく息を吸って口を開いた。


「居祈、夜が明けたらあなたは神になる」


 は? と声にならずとも心に思い、訝しむ。冗談だと思わないでと言われても、それは無理だった。

 珠名は今どんな顔をしているのだろう。いつものように厳格な顔か、それとも、今にも笑い出しそうな顔か。これは誕生日のいたずらで、下手に本気にすればこのあと一日中揶揄われることになるのかもしれない。澪などはそういうことを喜んでやりそうだ。けれど、相手は珠名だ。珠名に限ってそれはあり得ないだろう。


「神になるってどういう意味? 珠名がそんなおかしなことを言うなんて似合わない。それとも、本当は珠名じゃないのかな。珠名の姿を取った妖怪だったりして、ね?」


 居祈が怪しむと珠名の影が身じろいだ。


 やはりそうかと思い、ついため息が出る。

 多分、これもまたいつもの妖怪の戯れなのだ。


 神になるなんて、また見え透いた嘘を。


 居祈の瞳は人でない者を映す。その瞳の中の虹彩は夜行貝のように虹色に輝き、その美しさ故に魑魅魍魎を引き寄せる。中には良き者も悪しき者もいて、居祈は日頃どちらの相手もさせられる。


 しかし、珠名の姿を取ったこの妖怪は、嘘はついても悪しき者ではない。それは、この場所に現れたことが物語っている。


 森深い里の小山の上に建つ、手入れの行き届いた明神系の神社。古くから氏神を祀る葦翠神社が衣神居祈の住まいだ。両端の反り返った朱い鳥居をくぐればそこは神域。邪悪な者が触れれば弾き返されるか、祓われてしまう。その境内にある社務所の裏手の十畳一間が居祈の寝起きする寝所である。 


 居祈は仕方なく妖怪の戯れに付き合うことにした。妖怪は傷つきやすい。邪険に扱うと良き者も悪しき者に変わる。そこだけ見れば妖怪は人と同じなのだ。


「私の言うことを信じてくれないのね」

 珠名が声を低くする。

 どうやらこの妖怪は、嘘が下手なくせにそれを信じないと怒るらしい。

「わかったよ、珠名。君の言うことを信じよう。夜が明けたらおれは神になる。珠名が儀式を行って、おれを本殿にでも祀ってくれるの?」

「ええ。私が責任を持って丁重にお祀りさせていただきます」

 珠名が恭しく答える。

「儀式は夜明けか。なら、その前に起きなくちゃいけないね。今夜は妙な夢ばかり見てあまり眠れていないんだ。朝起きられるか心配だな」

「何を言っているの。あなたはよく眠った日でも変わらず朝は苦手でしょう? 私は儀式の準備があるので、いつものようには起こしに来られません。代わりに巫女を寄越します。起こすのが私でなくても、ちゃんと起きてくださいね」

「うん。もし揺すっても起きなかったら、『テーブルクロスを引き抜く勢いで布団を抜いてくれていい』って玉垣たまがきの姉さんに伝えておいて」

 珠名は障子の向こうでくすりと笑った。

「わかったわ。みおようにそう伝えておきます」


 珠名の姿をした妖怪はそう言って縁側を立ち去った。

 柳葉の影だけが障子に残り居祈はほっと安堵のため息をつく。

 どうやら機嫌を損ねずに済んだみたいだ。

 白い布団に横になり、掛布団を肩まで引き上げて小さく体を丸めて思う。


 それにしても、さっきの妖怪は何者だったんだろう。


 やけに居祈と珠名の事情に詳しいのが気になった。

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