第3話 奇妙な獣
鬼女は振り返り、北西の空を見上げた。闇に紛れ、崖と崖の間を縫うようにして烏が飛んでくる。一羽ではないとすぐに分かった。後続するもう一羽は結界で姿を隠しているが、目くらましにもなっていない。
鬼女がくくと笑い、切り立った崖を指さし、手首を返した。舞いのような仕草一つで崖がまるごと大破する。石礫が烏を巻き込み、轟音と共に土煙を上げた。
鳳凰も無事では済まない。結界が解け、紅い翼に覆われた体が露見する。だが、もうどうでもいい。相手が誰だかわかったからだ。墜落しながら敵のいる方角を睨みつける。その瞳に一閃が宿った直後に鬼女の立つ崖が崩れ落ちた。
土煙が揺蕩い、静寂が続いた。視界が晴れるのを待ち、鳳凰は地上に降り立つ。先程体勢を崩しながら放った攻撃は、竹林の一部を巻き込み大地を
あんな攻撃が当たるわけがない。姿を消したのは、今この場でまともにやり合うつもりはないという意思表示。
(こちらとて、そのつもりはない)
ふんと鼻を鳴らして、崖の下方へ視線を落とした。風の鳴る岩肌に何かが翻り、鳳凰は目を細めた。絢爛な羽織。芍薬の柄。
芍薬の羽織を纏った鬼神のような少年――
鳳凰は忌々しげに舌打ちをした。
(ぼうやは、あれとこの場所にいた)
◇ ◇ ◇
足音だ。
誰かの背中。硬くて体温が低い。
女でなく、人でもない。
誰に運ばれているのか。
どうして運ばれているのか。
どこへ運ばれていくのか。
(おれは生きている……のか?)
居祈は顔を上げようとした。だが、瞼を押し上げることすらできない。何者かに背負われて、ずり落ちるのを何度も背負い直される。幸い、この背中には敵意も邪悪も感じない。ただ少しだけ獣くさい。でも嫌いじゃない匂いだ。安心する。
担ぎ手は、背負い直すのがついに面倒になったのか、居祈を米俵のように肩に担いで歩き続けた。足音が、乾いた砂を磨り潰すような音に変わった。瞼の裏に光を感じる。明るい場所に出たらしい。崖の上から見たあの街だろうか。
周りで声がする。大勢いる。動揺、怖れ、好奇心。その原因は崖の方面で起きた災いによるものだと、騒めきに紛れて話し声が教えてくれた。
「
「大蛇がまた暴れ出したのか?」
「勘弁してくれ。また棲み処を壊されたらかなわない」
「棲み処を壊されるだけならまだましだ。
「ああ、恐ろしいことだ」
「でも何か変だぞ。大蛇が暴れる時はいつでも噴火が起きるじゃないか」
「そうだな」
「それなのに未だに噴石の一つも降ってこない。ちょっと様子を見に行ってみるか?」
「冗談じゃない。お前ひとりで行ってこい」
この者たちに限らず、崖の様子を見に行こうとする者と避難しようとする者が駆け回り、周りは混乱状態だ。
崖と大蛇。居祈がそれを聞いてピンと来ないわけがなかった。
(迷惑な蛇だったのか)
あの時もう少しまともな武器があったなら、ちゃんと倒せたかもしれないが、あの装備では自分の命を守るだけで精一杯だった。なかなか
担ぎ手は喧騒の中を悠然と歩く。声をかけてくる者は一人もいない。喧騒は遠くなり、街の灯からも遠ざかった。やがて虫の音が聞こえるだけの静かな場所に至り、木製の開扉音がして、ようやく担ぎ手の目的地に辿り着いたらしい。
肩から下ろされる時、もっと手荒に扱われるかと思ったが、病人を労わるように寝かされた。一旦居祈の傍を離れた担ぎ手が再び戻ってくると、居祈の顎を押し下げて、口に水を注ぎ込んだ。その水があまりに苦いのと、上手く嚥下できないのとで、居祈はげほげほと噎せ返る。その弾みで体を起こした。金縛りが解けたのだ。
「気が付いたか?」
気さくに話しかけてきた担ぎ手は、
「気分はどうだ?」
「最悪です……」
人生を呪うような声でつい本音が漏れる。
「ははは」
相手は愉快そうに笑った。
憤怒を剥き出しにした魔犬の面がここまで似合わない鬼がいるとは。少し調子が狂う。
「助けてもらったみたいで、ありがとうございました」
居祈はとりあえず頭を垂れて礼を言った。
担ぎ手は居祈の前にしゃがんで、これまでの明るさを一変させた。急に人が変わったようにドスの効いた声で言う。
「俺は鬼だよ? どうして助けたって思うんだ?」
助けたのでないのなら逃げるか戦うか決めなければならない。が、今の居祈には戦う武器も気力もない。気絶したのと同時に張り詰めたものが切れてしまっていた。今動かせるのは口くらいだ。
「どうしてって。もし食べるつもりなら、おれは今頃あなたの胃袋の中かなと」
「狼っていうのは、自分の棲み処に獲物を引きずり込んで喰うもんなんだよ」
「食いものなら、この部屋に運び込んだ瞬間放り投げても良かった」
「食い物は大事にしないとな」
「それでも逃げたり喚いたりしない方が都合がいいはず。それなのにあなたは真っ先におれに薬を飲ませて金縛りを解いてくれた。食うために連れて来たんじゃない。そうですよね」
相手は鼻に皺を寄せ怒りをの面の顎を撫でる。ふぅむと何か考えているようだった。その間、豊かなしっぽがゆらゆらと揺れ、答えが出たと同時にぴたりと止まる。
「気に入った。お前を食うのはやめにしよう」
そう言って相手は面を鷲掴みにして短くあちこちにハネ散らかした髪押し上げた。面の下にはおよそ鬼らしくない人の良さそうな顔。黒い瞳に青みがかかった白い虹彩。口角の上がった唇の片端に、種族に恥じない立派な牙が覗いている。
「俺は
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