第3話 奇妙な鬼
居祈は再び『神様の言うとおり』を繰り返し、とにかく竹林を抜けることを目標に進む。今度は二の轍を踏まぬようにと、途中、何とすれ違っても後を追わずに、羽織の衿をしっかり合わせて歩いた。
お陰で災悪に遭うことはなかったが、いつ空腹が襲ってくるかと思うと、今度はそれが新たな心配の種となった。
もし鬼界に
今のところ空腹を感じないが、これがずっと続くかどうか。この体のことを葦翠にもっと聞いておくべきだった。大事なことが判然としないと悶々と考えてしまう。
(臓腑がないのだから食べずにすむ体なのかもしれない。いや、今が単に興奮状態だから空腹を感じないだけかな)
(そうだ。食事なんて大事なことを元神様が何も言っていなかったのは、元神様に食事の習慣がなかったせいかもしれない。いや、どうかな。現世では神前に欠かさず
(頼むから食べなくていい体であってくれ)
そう願いながら、あるかどうかも分からない鬼の街を目指して竹林を歩き続け、やがて開けた場所に出た。
その先は崖の先端で、何一つ視界を遮る物のない闇のパノラマが広がっている。遠くに海。その周辺に街の灯りを見て、居祈は息を吞み、心の中でガッツポーズを決めた。
(鬼界にも街がある!)
居祈の見立ては正しかった。いくら常人ではないとはいえ、あんな鬼や化け物と戦いながら希望も得られず彷徨い続けるのは辛い。一つ確かな希望が見えて、目頭に込み上げてくるものを袖で拭った。
(この調子で、都合よく誰か味方が現れないものかな)
本来あまり人付き合いを好まない居祈でさえ、鬼界でたった一人というのは心許なかった。しかし、今のところ見かけたのは、生ける屍と大蛇、獣の妖怪と小鬼くらいのもので、人語が通じて尚且つ居祈に協力してくれる鬼などいそうにない。
(ここにもし、あいつがいたらな)
居祈は現世でたった一人、気の許せる友人がいたことを今になって思い出す。一緒に道場に通い、切磋琢磨した仲なのに、神との入れ替わりを決めた時ちらりともそいつのことを思い出さなかった。自分がそれほど薄情だったとは。
(仲間なんて、おれに持つ資格はないか)
自分に落胆し、宙を見つめる。
「おや、殿方がこんな処で黄昏れておいでとは」 背後から艶めかしい女の声がした。居祈の背中がよっぽど哀愁に満ちていて、それが可笑しいというように薄く笑っている。
居祈は背を向けたまま後ろを気にして瞳を動かす。
(何故おれの姿が見える。羽織はちゃんと着ているのに)
思い当たる答えはただ一つ。
今度の相手に目くらましは通用しない。
居祈は羽織をかなぐり捨て、戦意を新たに振り返る。が、たちまち動きを封じられてしまった。女が色香の漂う唇に薄笑いを浮かべて、ゆっくり居祈との距離を詰めてくる。微笑むだけで動きを封じられるのだ。口角を上げれば首を
足元が草地であるのに女が下駄で歩いてもまったく音がしない。霊魂の類か。だとすれば居祈に物理攻撃ができたとしても無意味。
(ここまで来て打つ手なしか)
居祈は崖っぷちに立たされた。
それにしても、相手は霊魂だろうと間違いなく鬼の類であるのに、そうとは思えぬ美しい容貌である。
「先程の戦い、見事であった」
(戦い――。さっきの屍と大蛇との一戦戦を見ていたのか。どこにいたんだ。周りには誰もいなかったはず。気配を消していたのか?)
「武器を失いどうするものかと高みの見物をしておれば、あれには笑わせてもらった」 鬼女はくすりと笑う。鬼女が笑っても自分の首が落ちていないことに居祈は束の間安堵しつつ、高みの見物と聞いて、初めて崖上に見た人影のことを思い出した。
(あの人影はこの鬼だったのか)
互いの瞳を覗き込めるほどの距離で、鬼女は歩みを止めた。鬼女に見詰められると、その美しさから幻想を見ているかのような気がしてくる。右目は緋色の虎目石のようで、左目は紺碧のそれのよう。鬼女も居祈の瞳の不思議に気付く。
「
現世のとある界隈で
「ああそうか」 女は独り言ち、居祈の頬に手を触れる。
「気に入った」 うっとりと見詰め、居祈の
「御主は今から私のものだ」
居祈は言葉も体も封じられたまま、ただ鬼女に運命を委ねることしかできない。鬼女はそれを楽しむかのように居祈の頬を撫で下ろし、その手をおもむろに自らの右目に運ぶ。次の瞬間、瞼の縁より指を差し入れ、ぐるりと一周かき回した。
緋色の虎目石のような瞳が、鬼女の白い親指と人差し指に挟まれている。居祈の反射的な
舌の上に乗ったもの、それが喉を通り過ぎる感触に、居祈の正気は限界は超えた。
世界は暗転する。
意識を失う直前に見た鬼女の顔は、右目を失って尚、美しかった。
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