第9話 鬼の国へ


「鬼の国……。ちょっと待ってください」


 天界へ行くはずだったのが、どうして鬼界に行く羽目に……。

 人はよく『天から地獄へ落ちる』と言ったりするが、人類史上これ程までに言葉通りの前例があっただろうか。


 いや、ない。


 居祈いおりも額に手を当てよろめいた。顔に死相が浮いている。


 こうなった責任を誰かに求めたい衝動に駆られて、夜明け前から今この状況に至るまでを振り返る。


 珠名たまながもっと早く儀式のことを知らせてくれていれば。

 双子の巫女がちゃんと作法を教えてくれていれば。

 第一、初代衣神がこんな約束さえしなければ。


 そのように誰かを責めてみても、彼らにすべての責任を押し付ける気にはなれなかった。


 珠名は決められた通りに祭祀を執り行うのが仕事であるし、巫女たちに揺り起こされてすぐに起きていれば、作法を覚える時間はあっただろう。何よりも、約束を破棄する機会を与えられながら承諾したのは居祈自身なのである。


「どうする居祈。進むか、戻るか」


 現世に戻ろうにも居祈の体は一つしかない。体に還るための臓物は今は葦翠いすい神のものである。一度譲ったものを『都合が悪くなったからやはり返してくれ』と求めるのは、彼の流儀に反していた。


 そんな真似をするくらいなら――と、居祈は妖刀で空を一太刀、覚悟を決めた顔つきで葦翠神に振り向いて聞く。


「鬼界と天界は、どこかで繋がっているのでしょうか」 

 一体何を言い出すのかと、葦翠神は首をかしげたが、いつか聞いた噂が口をついて出た。

「天界と冥界が黄泉平坂で繋がっているように、鬼界と天界もどこかで繋がっていると聞いたことはある」

「ならば、私は鬼界を経由して天界を目指すことにします」

「は?」


 葦翠神が呆気に取られている間にも、居祈は懐に戻してあった蛇のもう一匹を取り出し、端から端へ手をかざして鞘に変え、剣を納めて腰に挿した。


「私もこのとおり神通力を分けて頂いたのですから、鬼に遭遇したとしても、そう簡単には死なないはず」


 本当は恐ろしいだろうに、この子はこの子なりの道理を通そうと必死なのだと葦翠神は察した。そして居祈の華奢な体躯の中に猛々しい初代衣神きぬがみの勇姿を見た気がした。


「そうか。ならば私も御前の無事を祈ろう。これを持って行くといい」

 葦翠神は肩に掛けていた、芍薬の絢爛に咲き誇る羽織を居祈の肩にかけた。

「これは邪悪を祓う結界となり、御前を護ってくれるだろう」

「ありがとうございます」

「それと、その葦の筆」

 居祈は言われて懐に入れていた神の証を取り出す。

「これが何か」

「それに墨をつけて左腕の腹に文字を書け。書いた文字が私の右腕に届く。できればまめに無事を知らせてほしい」

「腕に墨で文字を書けばいいのですね」

 居祈は左腕の腹に筆を走らせてくすぐったがり、

「わかりました。無事だったら無事と送ります。他に鬼界で生き抜くための知恵はありますか?」と、矢継ぎ早に聞いた。


 葦翠神は唇に指を当てて考えた。

「鬼界と天界は疎遠でな。あまり情報が入らないのだ。だがこれだけはよく耳にする。『大禍』には近付くな――と」

「大禍。近付くなということは場所か何かでしょうか」

「詳しいことは分からない。分かったら知らせてほしいくらいだ」

「そうですか。では、何か分かったら報告します」

「便りを待っている」


 居祈は葦翠神に礼で返して、くるりと背を向け、鬼界へ向かった。


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