第8話 天変地異

 葦翠いすい神は居祈いおりから臓腑の袋を受け取ると、帯に挿していた葦の筆を抜き取り、居祈の片手に握らせた。ただ互いのしるしを交換しただけ。たったこれだけのことで、本当に人と神とが入れ替わったのだろうか。神は元神もとかみに、人は元人もとひとに?


 まるで実感が湧かない。


 と、居祈が思うのが早いか否か、皐月の空と瑞々しい葦原の景色が、再び夜と昼に分かれた世界に戻る。


 ぐらりと地が揺れた。


 よろめいた二人は同時に地平線の彼方を見やる。向こうに微かな地鳴りを聞いたのだ。間もなく小刻みな縦揺れが足の裏から這い上り、怒涛の地響きを伴ってぐらぐらと膝を揺らし始めた。立っていられない程の大揺れだ。


 天変地異――


 神の逆鱗に触れたのだろうか。いや、これは神の側から持ち掛けられた話。今さら怒るなど理不尽だ。しかし神話に理不尽はつきもの。もしかすると、あの儀式自体が人を試すための罠で、本当はあのとき何と言われようとも、断るのが正解だったのではないだろうか。


 居祈は今もただの人で、葦翠神は依然として神。

 その可能性もあり得る。


 真実を確かめようと葦翠神の顔色を窺えば、整った顔貌がんぼうが蒼褪めていた。異変はこの神の起こしたものではない。ならば一体、誰の怒りに触れたというのか。


 ゴキン――と異様な破砕はさい音。道の先で大岩が砕けた。一本道に亀裂が入り、地割れが音を立てながら、まるで二人を狙う鬼の手のように伸びて迫りくる。居祈は咄嗟に神を抱えて飛び退すさった。地割れはその先数メートルでぴたりと止まった。


 あたりに静寂が還る。


 腕の中の神は居祈の首にまわしていた腕を解くと、自らそっと地に降りた。


「一体何が起きたのでしょうか」


 居祈の問いに葦翠神はしばし黙考して、もしやと小さく呟いた。ふいに空を仰ぐ。つられて居祈も空を見上げた。


 漆黒の空に足りないものが一つある。元から星々のない不思議な空だったが、今は月もない。切絵のようにやけに輪郭のくっきりとしたあの月。


「月が落ちたのでしょうか」


 居祈が聞くと、葦翠神は被りを振った。


「あれは月ではなく天界に穿たれた穴。月光のように見えたのは天界から漏れ出た光。あの穴の向こうに天界が広がっていたのだ」


 今はそれがないということは、天界に行く術がないということを意味する。これは天上、高天原の怒りなのか。


「神と証を取り換えただけの元人を、天上の神々が拒絶したということですか?」

「いや、高天原ならともかく、天界には神として祀られた元人も存在する」

「じゃあどうして」

「一つ聞かせてほしい。私と会う前、儀式の途中で何かおかしなことをしなかったか」


 おかしなこと。


「もしかして、これのことでしょうか」

 居祈は気まずそうに懐に手を入れ、伸びきった蛇を三匹取り出した。

「何をしているのだ……」

「襲われたので致し方なく」


「ちょっと一匹貸してみろ」

 そう言って葦翠神は一番小柄な蛇をつかみ、もう片方の手でしっぽの先から頭の先まで二本の指で撫でた。すると蛇は指の触れたところから黒光りする妖刀に変わった。

「正に神業ですね」

 居祈は妖刀を振るって感嘆し、その横で葦翠神は嘆息した。


「私に元の力はないが、それでも神業を使えるくらいの力が残っている。どうやら儀式は中途半端に成されたようだ。恐らく私は人になり切れず、御前は神になり切れていない」

「互いに半神半人ということですか?」

「そうかもしれない」

「私が蛇に乱暴したせいで呪われたのでしょうか」

 居祈は責任を感じたが、葦翠神は首を横に振る。

「この蛇は黒龍の汗から生まれた小者。三匹合わせても、このような天変地異を起こせる程の力はない」

「ではこの有様は」

 居祈は地面に走る亀裂に視線を落とす。

「あと一つ可能性があるとすれば」

 葦翠神はそこで言葉を切って、深刻な面持ちで言った。

「御前、儀式の途中で作法を違えたのではないか」


 居祈は狼狽えた。儀式の作法については寝ぼけた頭で一度聞かされただけなのだ。最初は巫女の指示に従い、あとはいつも通りに神に祈りを捧げたつもりだ。だが、本当にそれであっていたのか。神前に近い足から踏み入ることに始まり、あの儀式の作法は異例だった。ではいけなかったのかもしれない。


「細かいことは覚えられなくて、間違っていたかもしれません」

「ここで最初に会った時、御前は何も知らなかったな。作法を間違っても不思議はない」


 葦翠神は額に手を当てた。

 事は深刻を極めるといった様子で、居祈は不安に駆られる。


「あの儀式の作法は、天と地を結ぶこの世界において、鍵のような役割を果たしているのだ。この空間は喩えるなら絡繰からくりり箱。正しい手順で開けなければ正しい扉は開かない。恐らくは誤った作法のために、本来天界に通ずるべき扉が閉じて、代わりにあちらが開いてしまったのだ」


 葦翠神は割れた大岩を指さした。


「まさか、あれは千引岩ちびきのいわ。黄泉の国への入口ですか!?」


「安心しろ。ここは黄泉比良坂よもつひらさかではない。故に、あれも黄泉の国への入口ではない。だが、結局似たようなものかもしれないな。あれは鬼の国への入口だ」

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