第8話 天変地異
まるで実感が湧かない。
と、居祈が思うのが早いか否か、皐月の空と瑞々しい葦原の景色が、再び夜と昼に分かれた世界に戻る。
ぐらりと地が揺れた。
よろめいた二人は同時に地平線の彼方を見やる。向こうに微かな地鳴りを聞いたのだ。間もなく小刻みな縦揺れが足の裏から這い上り、怒涛の地響きを伴ってぐらぐらと膝を揺らし始めた。立っていられない程の大揺れだ。
天変地異――
神の逆鱗に触れたのだろうか。いや、これは神の側から持ち掛けられた話。今さら怒るなど理不尽だ。しかし神話に理不尽はつきもの。もしかすると、あの儀式自体が人を試すための罠で、本当はあのとき何と言われようとも、断るのが正解だったのではないだろうか。
居祈は今もただの人で、葦翠神は依然として神。
その可能性もあり得る。
真実を確かめようと葦翠神の顔色を窺えば、整った
ゴキン――と異様な
あたりに静寂が還る。
腕の中の神は居祈の首にまわしていた腕を解くと、自らそっと地に降りた。
「一体何が起きたのでしょうか」
居祈の問いに葦翠神はしばし黙考して、もしやと小さく呟いた。ふいに空を仰ぐ。つられて居祈も空を見上げた。
漆黒の空に足りないものが一つある。元から星々のない不思議な空だったが、今は月もない。切絵のようにやけに輪郭のくっきりとしたあの月。
「月が落ちたのでしょうか」
居祈が聞くと、葦翠神は被りを振った。
「あれは月ではなく天界に穿たれた穴。月光のように見えたのは天界から漏れ出た光。あの穴の向こうに天界が広がっていたのだ」
今はそれがないということは、天界に行く術がないということを意味する。これは天上、高天原の怒りなのか。
「神と証を取り換えただけの元人を、天上の神々が拒絶したということですか?」
「いや、高天原ならともかく、天界には神として祀られた元人も存在する」
「じゃあどうして」
「一つ聞かせてほしい。私と会う前、儀式の途中で何かおかしなことをしなかったか」
おかしなこと。
「もしかして、これのことでしょうか」
居祈は気まずそうに懐に手を入れ、伸びきった蛇を三匹取り出した。
「何をしているのだ……」
「襲われたので致し方なく」
「ちょっと一匹貸してみろ」
そう言って葦翠神は一番小柄な蛇をつかみ、もう片方の手でしっぽの先から頭の先まで二本の指で撫でた。すると蛇は指の触れたところから黒光りする妖刀に変わった。
「正に神業ですね」
居祈は妖刀を振るって感嘆し、その横で葦翠神は嘆息した。
「私に元の力はないが、それでも神業を使えるくらいの力が残っている。どうやら儀式は中途半端に成されたようだ。恐らく私は人になり切れず、御前は神になり切れていない」
「互いに半神半人ということですか?」
「そうかもしれない」
「私が蛇に乱暴したせいで呪われたのでしょうか」
居祈は責任を感じたが、葦翠神は首を横に振る。
「この蛇は黒龍の汗から生まれた小者。三匹合わせても、このような天変地異を起こせる程の力はない」
「ではこの有様は」
居祈は地面に走る亀裂に視線を落とす。
「あと一つ可能性があるとすれば」
葦翠神はそこで言葉を切って、深刻な面持ちで言った。
「御前、儀式の途中で作法を違えたのではないか」
居祈は狼狽えた。儀式の作法については寝ぼけた頭で一度聞かされただけなのだ。最初は巫女の指示に従い、あとはいつも通りに神に祈りを捧げたつもりだ。だが、本当にそれであっていたのか。神前に近い足から踏み入ることに始まり、あの儀式の作法は異例だった。いつも通りではいけなかったのかもしれない。
「細かいことは覚えられなくて、間違っていたかもしれません」
「ここで最初に会った時、御前は何も知らなかったな。作法を間違っても不思議はない」
葦翠神は額に手を当てた。
事は深刻を極めるといった様子で、居祈は不安に駆られる。
「あの儀式の作法は、天と地を結ぶこの世界において、鍵のような役割を果たしているのだ。この空間は喩えるなら
葦翠神は割れた大岩を指さした。
「まさか、あれは
「安心しろ。ここは
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