第7話 人たる証


 葦翠いすい神は懐旧かいきゅうの情に堪えきれないといった様子で居祈いおりの頬を撫でる。その手の触れた感触が居祈にも不思議と懐かしく思われた。遠い昔、今のように直接言葉を交わしたことがあるような。同じ時を過ごしたことがあるような。


 そんなことがあれば忘れるはずがないのに、思い出そうとすると記憶に靄がかかる。


 葦翠神は居祈を気遣うように手を取り、そっと立ち上がらせてこう言った。


「さあ居祈、その袋を私におくれ」


(袋――? ああ、この得体の知れない麻袋のことか)


 蛇に襲われる直前、腰紐にくくりつけたのだった。儀式の時にはこんなもの持っていなかったはずだが、神前の供物台に布が一枚供えてあったような気もする。


「この中には何が入っているのですか?」

「知らぬのか? そこに入っているのは御前が人たるしるし。御前の臓腑ぞうふだ」


(臓腑!?)


 居祈は思わず腹に手を据えた。触った感じはなんともない。穴が開いているわけではないようだが。儀式の最中に腹が痛み出したのはこれが原因かと、袋を持ち上げ忌々しそうに見詰める。


「これをお求めということは、やはり、私はあなた様に捧げられた供物なのですね」

 

 『神になる』とは、神として祀られるのではないのだ。神に食べられ、神の体の一部になるという意味だった。あの儀式は人身御供の一種。だから直前まで何も知らされなかったのだ。


 居祈はそう理解しながらも、こんなに眩く麗しい神でも人を食らうのかと思うと、残念な気持ちが空っぽの腹の中に溜まるのを感じた。


 葦翠神は居祈の心を見透かして言う。


「居祈。私は御前を食べるのではない。入れ替わるのだ」

「入れ替わる?」

「左様」

「何と何がでしょうか」

「私と御前。神と人。これはそういう儀式だからな」

「神と人が入れ替わる? 一体どうしてそんなことを」

「遥か昔の約束だ」


 そう言って葦翠神は過去をかいつまんで聞かせた。


「私があの里に祀られて数十年、私を参る者はあっても姿を見る者は誰一人としていなかった。人の世にいてもつまらぬ。そろそろ天界へ昇ろうと思っていた時、彼と目が合った。私は人の命がどのようなものか知りたがり、彼は私の命がどのようなものか知りたがった。そこで私たちは契りを交わし、時が来たら互いの命を代わりに生きると決めたのだ」


「誰ですか、神の命に興味を持つなんて畏れ知らずの愚か者は」

 居祈は眉をひそめた。


「初代衣神きぬがみ。御前の先祖で、御前と同じ螺鈿らでんの瞳を持つ男」


 居祈は額に手を当てた。

 要するに、今自分がこんな状況に立たされているのは、先祖の酔狂のせいなのだ。


(神と人の入れ替わりなんて、当事者同士でやってくれよ)


 居祈が言葉にしなくても、心に思うことは葦翠神に筒抜けだった。


「すまないな。彼は約束を果たす前に死んでしまったのだ。十六になる日の夜明け前にな。それで約束は後世に持ち越されたのだ」

 

 葦翠神の話では、居祈の体はまだ現世で生きていて、心霊だけが天と地の境であるこの場所へ送られたのだという。まだ儀式は続いており、人が人たるしるしを神へ捧げ、神が神たる証を人へ与えることで、神と人とが入れ替わる。人の証は臓物で、神の証は葦の筆。


「ここで儀式をやめてもいいが、どうする?」


 聞かれて居祈は動揺した。引き返すという選択肢が与えられて初めて、自分がどちらに傾いているのかを知る。


 戻りたいのか、その先を見てみたいのか。


 先祖を愚かと罵りながら、居祈は自分にもそれと同じ血が流れていることを自覚した。神の命とはいかなるものか。そんなこと、倉の書物のどこにも載っていなかった。この機を逃せば生涯知ることはないだろう。死に怯んでここで引き返したとしても、あのとき儀式を行っていればと、いつまでも、それこそ一生後悔するに違いない。


 どうせ人はいずれ死ぬ。今も死んでいるようなものだとすれば、死はそれほど怖くない。ならば、答えは決まったも同然だ。


「いいですよ。続けましょう」


 居祈はその手に掲げた麻袋を、神の手に預けた。


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