第7話 人たる証


 葦翠いすい神は懐旧かいきゅうの情に堪えきれないといった様子で居祈いおりの頬を撫でる。その手の触れた感触が居祈にも不思議と懐かしく思われた。遠い昔、言葉を交わしたことがあるような。同じ時を過ごしたことがあるような。そんなことがあれば忘れるはずがないのに、思い出そうとすると記憶に靄がかかる。葦翠神は居祈を気遣うように手を取り、そっと立ち上がらせてこう言った。


「さあ、その袋を私におくれ」

「袋ですか?」 ああ、この得体の知れない麻袋のことか。

 居祈は葦翠に拝礼する際、腰紐にくくりつけた布袋を葦翠に手渡した。

「この中には何が入っているのですか?」

「知らぬのか? そこに入っているのは御前が人たるしるし。御前の臓腑ぞうふだ」

「臓腑!? ……ですか?」

 居祈は思わず腹に手を据えた。触った感じ、穴が開いているわけではないようだが、妙に体が軽い気がするのはそのせいか。儀式の最中に腹が痛み出したのはこれが原因かと、袋を持ち上げ忌々しそうに見つめる。

「あの、葦翠様。これをお求めということは、私は葦翠様に捧げられた供物なのでしょうか」

 葦翠が怪訝な顔をする。

「御前、覚えておらぬのか。珠名からは何と聞いているのだ?」

「珠名をご存じなのですか?」

「もちろんだ」

「珠名からは、私は『夜が明けたら神になる』と」

「なんだ、ちゃんと聞いているではないか」 

「実はあまりよく理解できていないのです。『神になる』とは社に祀られることかと思っていましたが、これはつまり、自らの臓腑を捧げて神に食べられ、神の体の一部になるということですか? 人の世で行われたあの儀式は人身御供の一種で、だから直前まで何も知らされなかったのでしょうか」

 居祈は浮かない顔で問う。心の中では、こんなにも眩く麗しい神でも人を食らうのかと思うと、残念な気持ちが拭えなかった。空っぽの腹の中に得も言われぬ落胆が溜まるのを感じた。


 葦翠神は居祈の心を見透かして言う。


「居祈、そんな浮かない顔をしないでおくれ。私は御前を食べるのではない。入れ替わるのだ」

「入れ替わる?」

「その通り」

「何と何がでしょうか」

「私と御前。神と人。これはそういう儀式なのだからな」

「神と人が入れ替わる? 一体どうしてそんなことを」

「遥か昔の約束だ。私は人になりたがり、衣神――御前の先祖は神になりたがった。そこで私たちは契りを交わし、互いの命を代わりに生きると決めたのだ」

「そんなこと。一体先祖の誰ですか? 神になりたがるなんて畏れ知らずの愚か者は」

 居祈は眉をひそめた。

「初代衣神きぬがみ。御前と同じ螺鈿らでんの瞳を持つ男」

 居祈は額に手を当てた。よりによって同じ瞳を持つ先祖が、そんな世迷言を。

 要するに、自分がこんな状況に立たされているのは、先祖の酔狂のせいなのだ。

 神と人の入れ替わりなんて当事者同士でやってくれ、と思ってしまう。

 居祈が言葉にしなくても、心に思うことは葦翠神に筒抜けだった。

「すまないな。衣神は約束を果たす前に死んでしまったのだ。十六になる日の夜明け前、鬼に殺されてしまった。それで約束は後世に持ち越されたのだ」

 

 葦翠神の話では、居祈の体はまだ現世で生きていて、心霊だけが天と地の境であるこの場所へ送られたのだという。まだ儀式は続いており、人が人たるしるしを神へ捧げ、神が神たる証を人へ与えることで、神と人とが入れ替わる。人の証は臓物で、神の証は葦の筆。


「ここで儀式をやめてもいいが、どうする?」


 聞かれて居祈は考えた。人の世に戻りたいのか、神と入れ替わり、この先の誰も見たことのない世界を、この目で見てみたいのか。神の世界とはいかなるものか。それは人の世に戻って蔵の書物を漁っても、どこにも載っていないのだ。この機を逃せばもう二度と知ることはできないだろう。先祖を愚かと罵りながら、居祈は自分にもそれと同じ血が流れていることを自覚せざるを得なかった。どうせ人はいずれ死ぬ。今も死んでいるのと大して変わらない。そう思えば死は恐れるに足りなかった。答えは決まった。


「わかりました。このまま続けましょう」


 居祈はその手に掲げた布袋を、神の手に預けた。

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