第2章

第1話 奇妙な祝詞

 珠名たまなは神殿で朝の勤めを終えたあと、すぐに社務所へ向けて下駄を走らせた。居祈いおりはあの日以来まだ目を覚まさない。今日で四十九日が経つというのに。


 お隣の宗教では、人は死ぬと七日に一度裁きを受け、七回目に来世の行き先が決まるのだという。居祈はまだ生きているのだし、七七日なななぬかだからといって何でもないはずなのに、珠名はそこはかとない不安に駆られていた。


 居祈の部屋の障子戸をそっと開けると、床に臥した少年の傍に、巫女が一人と中年を過ぎた医者の姿があった。


 居祈は境内けいだいの外に出るとに狙われがちであったから、外の病院には入れられず、事情を心得ている馴染みの医者に無理を言って来てもらっている。


 障子戸が開いたのに気付いて巫女が振り返った。左目の下に涙黒子。双子の姉のようである。


「大丈夫ですか、珠名様。今にも倒れてしまいそう」


 心配に満ちた瞳を見て、珠名は今、自分がどんなに思いつめた顔をしているのかに思い至った。


「大丈夫よ。心配かけて御免なさい」

 二人が言葉を交わす横で、医者は診察を終えて立ち上がる。

「血圧は相変わらず低いですが、容体は安定しています。明日もまた同じ時間に」


 珠名は頭を下げて医者を見送り、巫女の隣に膝を折る。血の気の薄い居祈の顔を覗き見て涙が込み上げてくるのを抑えきれない。


 裏庭に春風がそよめき柳の葉の重なる音を聞くと、本当は今頃、新しい制服に袖を通した甥っ子を、毎朝学校へ送り出していたはずなのにと思い居た堪れなくなる。同時に、こうなったのは私のせいだと自らを責めた。



「居祈様はお目覚めになるでしょうか」


 葉が聞き、珠名は居祈の瞼にかかる黒髪をそっと指で払いのけ、小さく口を開いた。


「掛けまくもかしこ葦翠神いすいのかみやしろの大前に、宮司衣神きぬがみ珠名たまなかしこかしこみもまをさく」


 珠名は葉の問いに答えるのでなく祝詞のりとの序文を口にしていた。いつもの珠名なら、麗らかな声で真摯に読み上げるのが常なのに、葉が今見るところでは心ここにあらずといった様子で、ぼんやりとあの日の儀式で奏上そうじょうした言葉を諳んじている。珠名は虚ろな瞳の奥で、もう一度あの儀式をやり直しているのだった。


「今し大前に参りし人の子衣神居祈――


 大神のしきすこの郷に――


 御氏子みうじこ生出あれいでしより――


 いにしへちぎりよわいになりて人神ひとがみつらくははりぬここちて――


 御食みけ神酒みき御布みふ献奉たてまつりて拝奉をろがみまつさまを――


 たひらけくやすらけく聞食きこしめし――


 大神の広き厚き御心みこころに迎え入れたまひ――


 一族とほ先祖みおやの真心尽くして仕奉つかへまつことの如く――


 と有る重き大き務めを深く悟りて――


 こころなおおこなひただしく定められし道に違ふ事無く――


 つつしはげましめたまへと、かしこかしこみもまをす――」


 ところどころ力を失い声が掠れて聞こえなかったが、珠名はそれでも最後まで祝詞を読み上げ神妙に締めくくった。


 それまで居祈の髪を撫でていた手が止まり、珠名の膝上しつじょうに収まる。いつの間にか妹巫女のみおも来て、姉の隣に座っていた。


「珠名様、儀式の時も思ったのですが、あの儀式の祝詞はなんだかとても奇妙ですね」


 澪が小首をかしげて言ったのを、姉の葉が「何を言うの」と窘めるが、しかし彼女も内心同感だったので、珠名は尚更そうであろうと、敬愛する女性神職の横顔を窺った。


 珠名は『奇妙』という言葉は避けたが、同意であった。


 確かにあの祝詞は不可思議だった。


 人神――


 この二文字を最初見間違いかと思い、何度も見直したが、やはり紛うことなく『人神』と書いてあった。


 祝詞を読み解くに、居祈がかつて神と約束をした歳になり、人神の列に温かく加え入れてほしいということを願う内容と思われる。


 確かに居祈は生まれつき特別な瞳を持っていて、妖や神を見ることができる。異能を持つというだけでも神に近いと言えば近いのかもしれない。だからと言って、神の列に加えるなんて、そんなことが許されるのだろうか。


 もし、あの夜の出来事がなければ、先祖が残した悪戯だと思って、祝詞を記した紙を護摩に焚いていたかもしれなかった。

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