第2話 奇妙な晩
「あの夜、悪夢に魘されて目を覚ましました。強烈な夢でしたのに、瞼を開くのと同時にすぅ――と忘れてしまう。そんなことありません? また眠ってもまた同じ悪夢を見る。その繰り返し。どんな夢だったのか、どうしても思い出せないのですが、ひどく惨たらしい夢だということだけは分かるのです。
そのうちに金縛りに遭いました。目だけは動かせるのに、体を起こそうとしてもぴくりとも動かない。しばらく目に映るものを眺めるばかりでしたが、金縛りが解けたとかと思うと今度は、自分の意思とは関係なく勝手に体が動き始めました。
頭と体が別の生き物のように、私の体は勝手に布団から這出て姿鏡の前で身支度を始めたのです。顔に浮かんだ恐怖と淡々と着物を着付ける手元があまりにもちぐはぐで、あの時の恐ろしさと言ったら気を失いそうになる程でした。
何かに憑依されていたのならまだ説明がつくのですが、憑依されるときに感じる異物の侵入は感じませんでした。首から上と下がまるで噛み合わないのに、どちらも紛れもなく自分なのです。
私の体は着付けが終わると、今度は櫛で髪を梳き、化粧を施し始めました。その最中、脳裏にフラッシュを焚いたように支離滅裂な映像がパッパッと映し出されて切り替わりました。
月夜、柳の木、丸井戸、この世の者とは思えないさ烏のように真っ黒な人影。烏なような者たちが一人を寄って集って攻撃しているのです。相手は白地の着物を着た人でした。相当の手練のようでしたが多勢に無勢。
私が駆けつけたときには井戸の壁にその人が寄りかっていました。首を項垂れ、地面に足を投げ出して座っているのです。黒髪が顔を隠していて誰だかは分かりません。体格は細身だけれど男の方で、男なのに椿の着物とは珍しいと思ったのです。
でも、それは決して椿などではありませんでした。
血の臭いが鼻を突いた瞬間、金槌で撃たれたかのように心臓が痛みました。叫び喚きながら、私は井戸にもたれるその人を目掛けて駆け寄りました。肩を揺さぶると頭がぐらぐらと揺れて、こと切れているのは明らかでした。その上、周囲には腹からは内臓が引きずり出されていたのです。
映像はそこで途絶え、私は再び鏡に映る自分の姿を見ました。すっかり髪を結い上げ化粧も済んでいました。化粧箱に紅を戻すと私の体は立ち上がり、障子戸を開けて廊下に出ました。行き先はわかりませんでしたが予感はしていました。居祈の部屋です。言うことを聞かないこの体が、一体居祈に何をするつもりなのか、恐ろしくて今でも手が震えます。
あの夢がもし予知夢だったとしたら、これから私が居祈の腹を割いて殺めるのではないかと思いました。なんとかしたくても成す術がない。居祈の部屋に近付くに連れて気が遠くなりました。
そんな意識を乗せた私の体は、床板を白足袋でするすると歩み、そして、ぴたり――と居祈の部屋の前で止まったのです。結果として思ったような恐ろしいことは起きませんでした。
月夜の美しい晩、一陣の風を受けて、珠名の口がひとりでに動き、居祈といくつか言葉を交わし、言わなければならない大切なことを伝えたのです。
『夜が明けたらあなたは――神になる』
私はその後いくばくか気を失っていたようです。古書骨董の臭いが鼻腔を抜けるに伴って意識が戻ると、私は倉の中にいました。さっきのは一体何だったのか、気味悪さを振るい落とそうと首を降り、気味の悪い倉の中から出ようとしました。
その時、積み上げられた古書の上に螺鈿細工を施した漆塗りの文の箱が置いてあることに気付きました。蓋を開けると中に細長く折り畳まれた文が二枚納められていました。
一枚は端正な毛筆で書かれた祝詞で、神と人の入れ替わりを願う荒唐無稽なものでした。もう一枚は円や直線や黒丸で書かれた記号のようなもので記されていいました。私には何が書いてあるのか見当がつきませんでした。けれど、うちの巫女たちには不思議と二枚目の暗号のようなものが読めたのです。
決まった通りに儀式を執り行うように。
さもなくば祟られるというような内容だったそうです。
誰かの悪戯と思うにはその前に色々ありすぎました。書いてある通りのことをしなければ何かあってもおかしくないと思えたのです。得体の知れぬものによる祟りを恐れて、私も、巫女たち、祭祀に文の通りに祭祀を執り行うべく、出来る限りを尽くしたのです」
「つまり、その中に私を呼ぶようにということも書いてあったということですね」
珠名は首肯した。
「葦原家の末裔を同席させるようにと」
着物の袖で目尻を拭う珠名に、
「そうでしたか」
にわかには信じがたい話も衣神家にはあり得ない話ではなかった。
「あまりお気を落とされませんように」と声をかけ、
明日また来ると言い残して葦原は神社を後にした。
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