第9話 花の香
天界で素戔嗚が二人の行方を探している頃、居祈は人の世に戻り、辰巳の神社に身を寄せていた。妙な儀式で天界に送られたときから大禍の命を果たすまで、ずっと溜まっていた疲れが出たのだろう。微熱を出して布団に寝かされている。
「天界はもういいのか?」
辰巳が傍にあぐらを組んで聞いた。
「うん。もう少し色々見てみたかったけど、長くいるところではないと思った。すべてを知り尽くして想像の余地がなくなってもつまらないし、ひと目見られただけで十分だ」
「そうか。女官がイザナキ様を無理心中に巻き込んで殺した話、君はあれをどう思う?」
「おれは少し違うんじゃないかと思ってる」
「どうして?」
「神々の噂によれば、天之瓊矛はイザナキ様の胸に刺さったままだった。その場合、イザナキ様が女官を殺してから自分の胸を突くのは可能でも、その逆はあり得ない」
「逆っていうと、女官がイザナキ様の胸を突いたあと自分の喉笛を切り、絶命する前に再びイザナキ様の胸に天之瓊矛を戻す。確かに不可能かつあり得ない。じゃあ、君はイザナキ様が女官を巻き込んで無理心中を図ったって思うのかい?」
「それも違うと、おれは思う。イザナキ様は事の最中イザナミ様の名を何度も叫んでいたって聞いた。それならイザナキ様が愛していたのは女官じゃなくてイザナミ様だ。愛する女性と死ぬのならともかく、愛していない女性と心中なんか絶対にしない」
「じゃあ、実際は何が」
「寝室に飾らないようにと言ったのを聞いてくれさえばな……。杞憂であってほしいと最後まで思っていたけど、悪い予感に限って当たってしまうものだね」
「つまり君は、そのときから女官とイザナキ様に関係があったことに気付いていたのか?」
「そうかもしれないとは思っていた」
「でも、そんな素振りは見えなかった」
「素振りはなくても、辰巳も気付かなかった? 女官から花の香りがした。香りというより匂いかな」
「木蓮のような香りがしたような。でも、花の香りなんて、女ならよくあることなんじゃないか?」
「木蓮は境内に咲いていたから、きっとその香りが風に運ばれてきたんだろう。おれが気付いたのはそれじゃなくて栗の花の匂いだ。でも、境内に栗の木はなかった」
「栗の花……精液の匂いか」
「あのときは言いにくかったから言わなかったけど、おれは多分そうじゃないかと思った。夜が盛んで匂いが染みついていたか、ついさっきまでそういうことをしていたか、細かいことは分からないけど。もしそれが当たっていたとして、天之瓊矛を寝室に置いたりしたらどうなると思う?」
「イザナミ様が夫の浮気を目撃することになる。夫も愛人も殺してやりたくなる。だから君は、寝室に飾らないようにと忠告を?」
居祈はうん、と喉で答えて「無駄だったけどね」とつぶやく。
「イザナミ様は最初に女官の喉笛を切り、それからイザナキ様の胸を突いて殺した。でも、イザナキ様が自分の名前を何度も叫んでいたのを聞いて、愛されていたことを知ったはず。最後はイザナキ様と一つでいたかった。だから胸を一突きしたあとも」
「胸に突き刺さったままだった、ということか。なんだか恐ろしくて寒気がするな」
「イザナキ様は供養されるだろうね」
「だろうな」
「イザナミ様はどうなるんだろう」
「さあな」
「二人一緒にいられるといいのにね」
「そうだな。居祈君、もう目をつむって。今日はここに泊まって、ゆっくり休むといい」
「うん。ありがとう、辰巳」
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