エピローグ

帰還


 里では葦の穂が綿毛を揺らし、季節はすっかり秋めいていた。小山の麓に流れる川の水は、素足で入るのには冷たすぎる。にも拘わらず、葦翠は痺れる指先を我慢してもうかれこれ一、二時間、川に浸かってあるものを探していた。


 かつては手をかざすだけで、どんな葦でも神がかったものだが、居祈に神通力を分け、人の体を得たせいで、そんじょそこらの葦では光らない。葦翠はふうと息を吐いて額を拭う。


 居祈から最後の文を受け取って久しい。鬼界の大神と接触し、任務を果たして天界へ向かうと伝えてきた後はとんと音沙汰がなかった。葦翠の方から文を送ろうにも、そのための葦の筆は居祈に授けてしまった。ならば新たに作るしかないと、こうして水に浸かり、残された力でも反応する葦を探している。


「葦翠様?」

 問われて、葦翠は橋の上を振り仰いだ。

 今となっては葦翠をその名で呼ぶ者は少ない。しかも、声の主は珠名でも双子の巫女でもない。久しぶりに聞く声。この世で聞くはずのない声だった。

「居祈…… 本当に居祈なのか!?」

 欄干の向こうで和装の居祈がこくりと頷くのを見て、葦翠は川の水を蹴り、土手を駆け上がった。

「どうしてここに?! いつ戻ってきた!?」

「つい先日」

「天界へは行けなかったのか?」

「いいえ、行ってきましたよ。向こうについて間もなく、思いもよらない事件が起きまして。あのまま長居をすると不味いことになりそうな気がしたので、早々に引き上げてきたのです」

「不味いって、御前、今度は何をした……?」

「それは、あまり知らない方が」

「なんだその微笑は……! 御前一体何をした!? 怖いから言え!」 

「そういえば、珠名や玉垣の姉さんたちはお元気ですか? 帰ったからには改めて挨拶をしなくちゃ」

「人の話を聞け!」

 石段を登る居祈を後から葦翠が追いかける。


「本当に、直接的なことは何もしてませんよ。ただ、切っ掛けを作ったことを責められたら、八つ裂きでは済みそうにありませんね」

「だから何を……」

 そんなやり取りを交わしながら居祈は葦翠と鳥居をくぐる。

 懐かしい声を聞いて、境内の掃除をしていた双子の巫女は声を揃えた。

「「居祈様!」」

 掃除の手を止め、箒や雑巾を放り出して、二人は居祈に駆け寄る。

「葉、澪、ただいま」

 葉は目尻をぬぐい、澪は居祈の手を握り、「良かった、良かった」と繰り返した。


 珠名はその後ろに立ち、歓迎の輪に加わるのを躊躇っていた。記憶を取り戻した珠名は、もはや自分が居祈の叔母などではなく、むしろ自分の方が鬼怒神から生まれたのだと自覚している。こうして居祈と面と向かってみて、どう接していいかわからない。

「珠名」

 居祈の方から先に声をかける。

「主様……」

「主様なんて、そんな呼び方。これまで通り居祈でいいよ」

 居祈はくったくなく微笑んで、

「ただいま」と言った。

「おかえりなさいませ、居祈様」


 うんうんと傍で葦翠が頷く。

「ようやく社に神が戻ったのだ。今宵は宴だな」

「「珠名様、宴です! 御馳走! 御馳走を作りましょう!」」 

 巫女姉妹に腕を引かれ、え、あ、と戸惑いながら、

「それでは居祈様、私は支度をしてまいります!」

 拉致同然に連れ去られる珠名に向けて、居祈が小さく手を振った。


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