第2話 辰巳

 葦翠いすいの言葉を解散の合図に、集まっていた者たちは境内をあとにした。獣も妖怪も、八百万の神々も、ぞろぞろと鳥居から出ていく。すべての者が背を向けたのを見て、葦翠は踵を返した。双子の巫女もそのあとに続こうとしたそのとき、


 ガラン――


 と、本坪鈴が鳴った。


 葦翠と巫女たちが本殿の方を振り向くと、居祈くらいの年かさの青少年がそこにいた。緩めた臙脂のネクタイに濃紺のブレザー、グレーのスラックスの脚を組んでいる。賽銭箱に腰掛けているが、それが無礼とは思っていないようだ。


 葦翠と目が合うと、くっきりとした目鼻が嵌った顔で薄い唇を歪ませた。本人は笑みを作ったつもりなのだろう。

「本当に人の皮を被るなんて、葦翠は昔とちっとも変わらないね」

 と言っておもむろに立ち上がる。

 夕方に伸びる影のようにひょろ長い男。

 人のように見えるが両眼は爬虫類のそれである。


「黒龍か。呼んでない」

 葦翠が一瞥して言い捨て、背を向ける。

「待って待って。葦翠が帰ったって聞いたからわざわざ挨拶に来たのに。相変わらず連れないね。あとね、僕は人の姿のときは宇賀うが辰巳たつみって呼ばれてるんだ。黒龍なんて名前は世間では痛々しいからね。よかったら葦翠も辰巳って呼んでよ。居祈いおりも玉垣姉さんたちも、ついこの前までそう呼んでたんだしさ。ね!」


 馴れ馴れしく近付く詐欺師のように、辰巳と名乗る男は薄い唇に笑みを浮かべた。

 澪と葉は嶮しい顔で、葦翠を守るように前に立つ。

 敵意を遮るように両手を軽く掲げ、辰巳が薄い唇を開く。

「玉垣姉さんたち、急にどうしたの? 僕は居祈君の親友じゃない。この前会ったときはそういう扱いだったのに、どうしてそんな……。あ、わかった。やっと記憶を取り戻したんだね。良かったね!」

 辰巳はにへらと笑いかける。

 澪と葉が一瞬たじろぎ、改めて眉を一層釣り上げた。

「そんなに恐い顏しないで。隣人はもっと大切にしなくちゃ」

 ふん、と葦翠は鼻を鳴らす。


 辰巳こと黒龍は隣の里に社を構えるれっきとした神である。祀られた背景は穏やかならざるもので、かつて葦翠の里より南の村で嵐を起こし、家々や田畑を壊し、多くの村人を呑み込んだ。生き残った人々の中に、暗雲の狭間に怪しい黒い鱗を見たという者がいて、村人たちは黒い龍の仕業と恐れ、鎮めるために彼を神として祀ったのだ。


 その黒龍が、人として居祈と仲良くやっていたと言う。記憶を封じられた澪と葉が、黒龍を居祈の親友として扱っていたことも、二人の反応を見る限り嘘ではないらしい。


「庭で話そう」

「「葦翠様!?」」


 澪と葉が勢いよく首をまわした時には葦翠は社務所の扉を開けていた。固まる双子のすぐそばを、へらりと笑みを浮かべて、ひらひら手を振りながら辰巳が通り過ぎる。


 玄関で革靴を脱ぎ、辰巳は病着姿の葦翠のあとを暢気について行く。

「葦翠が僕と話したいなんて、明日は嵐かな」

「そういう冗談を言うな」

 葦翠の冷淡な声に、辰巳がふふと愉快そうに笑う。


 自室の障子の前で立ち止まった葦翠に、

「居祈の部屋に招かれるのなんて久しぶりだ」

 大きな口の薄い唇でまたにへらと笑った。

 葦翠は上目に辰巳を睨みつけて、

「部屋にはれない。ここで十分だ」

 そう言って柳の揺れる庭の縁側に、葦翠が先に腰を下ろす。

 辰巳は仕方ないかというように肩を竦めて、葦翠のすぐ傍に座り長い脚を持て余す。


「もう少しそっちへ行け」

「ああごめんね。居祈君とはいつもこの距離だったから、つい」

 辰巳は少し左へ寄り、爬虫類の両眼で葦翠を見て聞いた。

「で? 僕と話したいことって何?」

 

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