第8話 鬼の目

 豺狼がすっと片手を持ち上げ居祈の瞳を指し示す。


「その瞳」


 黒く澄んだ瞳に、螺鈿らでんのような虹彩。その瞳に気付いた者ならば、誰でも間近で見ようとする。葦翠も、崖の鬼女も、居祈の瞳を覗き込んだ。豺狼がそうしなかったのは、単に気付いていないからだと思っていたが、そういうわけではなかったようだ。でも、だから何だと言うのだろう。今は居祈の名を呼べた者が豺狼以外にいないという話の最中なのに。


「この目が、何か?」

 居祈は落ち着きを取り戻しつつある中で首をかしげる。

「お前はまったく知らないようだが、そいつは鬼界では有名なんだ」

「有名?」

「有名も有名。鬼界の歴史に名を遺す、ある鬼神が持つ目と同じだ。そして、その鬼神の名が、キヌガミという」

「おれと同じ名前」

「そう。鬼人きじん以上の階級で、キヌガミの名を知らない鬼はいないし、その目を見ればお前がキヌガミの血族だと思うだろう。俺でなくてもお前をキヌガミと呼びそうな輩はいくらでもいるってことだ」


 そういえば、豺狼に初めて名乗った時、キヌガミという名に妙な反応を示したように思う。『へえ、キヌガミの』と、その名に聞き覚えがあるような言い方をした。崖の鬼女も居祈の瞳を覗いて『ああそうか』と言った。あの鬼女も、居祈の瞳を見てキヌガミの縁者だと思ったのだろう。


「でも、おれはここへ来て間もない。おれのこの目に気付いたのは豺狼を除いてあの青い衣の鬼女しかいない。あの鬼がおれを取り返しに来たってこと?」

「だろうな」

 だいぶ遠回りをしてやっとことのあらましを理解する。

「豺狼がおれを奪ったことを、あの鬼は怒っているのかな」

「俺なら怒る」 と豺狼は簡単に肯定した。

「だから痕跡を消したのに、なぜこの場所が知られたのか」


 豺狼が隠滅の術を使えば、白銀の世界に降り積もる雪のごとく完璧に外景に溶け込む。崖で居祈を手に入れた瞬間、豺狼はその姿も気配も匂いでさえも、追跡され得るすべての要素をかき消した。現に、豺狼が居祈を抱えて鬼の街のど真ん中を罷り通っても、誰にも気付かれることはなかった。


 術に綻びはなかったはずだ。でも他に見当がつかない。

 豺狼は後ろ頭をガシガシと乱暴に掻いた。

 その様子を見て居祈が正座を直し、こうべを垂れる。


「ごめんなさい。おれ、なんだか迷惑をかけてる」

「お前が謝ることなんてない。戦力としてお前を求めているのは俺の方なんだ。それよりも、この場所が割れた理由を知りたい。何か心当たりはないか?」


 尋ねられて、居祈はすいと目を逸らす。

 言いたくない、というよりかは、思い出したくなかった。


「関係があるかどうかは分からないけど、あの鬼に、目玉を……食わされた」


 ひと呑みにするには大きすぎる、あのぬらりとした球体。

 咽頭を目玉が押し広げ、ゆっくりと自分の中に落ちていくおぞましい感覚。


「そうか。お前、鈴を付けられていたんだな」

 目玉を鈴に喩えた豺狼に、居祈は息せき切って反駁する。

「あれは鈴なんて奇麗なもんじゃないよ! すごく気持ち悪かった! もし今ゴキブリと鬼の目、どちらか食わなきゃ殺すと言われたら、どっちにするか迷うくらいに!」

 居祈は自分を抱くようにして両腕に浮かんだ鳥肌をさすった。

「そうか……。それは……災難だったな」


 他に掛ける言葉が見つからず、豺狼は話を元に戻す。


「とりあえず、ここが知られた原因は分かった」

「どうするの? これから」 

「お前の腹ん中の目玉がえにしになっている。俺の術で正しく断ち切れば大丈夫だ」

「どうやるの?」

「目をつむれ」


 居祈は素直に言う通りにした。優しい面立ちに長い睫毛の影が落ちる。


 神様っていうのはこんなに奇麗なもんなんだなと、豺狼は思いながら、居祈のさらりとした前髪を掻き分け、額に指を二本揃えて当てた。呼吸を整え、精神を統一し、低く聴き心地のいい声で縁切りの呪文を唱える。それから豺狼は眉尻を下げた。居祈に申し訳なく思いながら、みぞおちに拳を叩きこむ。


「かはッ」


 居祈の体躯が二つに折れ曲がり、呼吸困難に陥った。


「さ、豺狼……、何……を……」


 今、自分に何が起きたのか、居祈にはすぐに理解できなかった。が、体腔から喉元に向かって丸い物がせり上がり、ようやく豺狼の意図が分かった。咽頭を押し広げ、吐き出されたゼラチン質の球体が、ぽよんと床に転がり出る。紅い虎目石のような瞳が、撃沈した居祈を見つめた。それを拾い上げて豺狼が、居た堪れなさそうに謝る。


「悪いな。これが正しい縁切りの方法なんだ……」

「本当に?」


 居祈はどよんと落ち込み床に横たわったまま動かない。腹が痛むのはもちろん、心の準備もなく再びあの気持ち悪さを体感し、今度は気絶こそしなかったが、いささか魂が抜けたように思う。豺狼の目から見ても、居祈の周りにいくつか青い人魂が浮いているように見えた。


「本当に悪い」

「これが正式なら仕方ないよ。人の世でも男が女に別れたいって言うと、女が男を殴って、それで終わったりするもの」


 豺狼には人の風習はよくわからずコメントしづらかったが、居祈がおもむろに体を起こそうとするので、その手を取り、引っ張り起こした。


「目玉はどうする?」

「見たくもない……」

「まあ、そう言うだろうと思ったが。握りつぶす前に、この話は聞いとけ」

「どんな話?」

 居祈が興味なさそうに聞くと、豺狼は商人が商品を語るように熱弁する。


「鬼の目ってのは持ち主の魔力の塊だ。あれは大物。この目玉に籠められた魔力も相当。目玉なんて髪の毛みたいに自然と抜け落ちるもんじゃないから、普通は戦って勝つしか手に入れる方法がない。つまり、こいつは貴重品。街に行けばそれなりの物と交換できるはずだ」

「魔力の塊か」


 居祈は初めて目玉に目をくれる。紅い虎目石のような水晶体はそれこそ宝石のような代物で、確かに豺狼の言う通り、それなりの価値があるのだろう。今は豺狼の手中にあり、そのまま握りつぶしてと頼めば惜しみながらもやってくれそうな気はするが、それよりもいい考えがある。


「それ、おれがもらっていいかな」

「元々お前の物だ。街なら案内するぞ。何と交換する?」

「豺狼はおれを戦力と言ってくれるけど、おれ、今なにも武器を持っていないから」

「武器と交換するのか。それはいい」

「いや、そうじゃなくて。これをこのまま使おうと思う。上手くいけば一瞬で片がつく」

 

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