第6話 留守番

 居祈は小さく溜息をついてから言った。

「おれも大概、信用ないな。ちゃんとここにいますよ」

 居祈が伏した目を持ち上げると、豺狼と目が合った。僅かに驚いたようなその目を不思議に思い、何? と聞こうとしたところで、彼は前を向いて行ってしまった。

「いってらっしゃい」

 閉まる扉の隙間に投げた言葉が、豺狼に届いたかどうかは分からない。


 居祈は正座していた足を崩し、鍵のかかっていない扉を眺めた。


「鍵も閉めないで、豺狼はおれを試しているんだろうか。おれが逃げる利点なんて一つもないのに」


 一歩外に出れば魑魅魍魎跋扈する鬼の世界だ。葦翠の羽織も、どうやらここにはないらしい。あの羽織の結界なしに外に出るのは自殺行為。命の保証をしてくれる鬼なんて、他にそうはいない。豺狼といる方が居祈にとってよっぽど安全なのだ。


 居祈はそう自分に説明して、ここに留まる理由に納得する。しかし、そういう打算的な理由ばかりでないような気もした。おに〔鬼を鬼たらしめる感情や気質〕を抜いているせいか、豺狼が鬼だということをどうにも忘れがちになる。獣耳やしっぽがあっても、だ。見知らぬ世界に単身やって来た人恋しさもあって、どうにも懐く先を求めてしまいそうな、それが豺狼に寄りつつあるのを、居祈は危うく思った。鬼など信用ならないと、頭では分かっていても、豺狼とは友達になれそうな気がしてしまう。


(駄目だ。相手は鬼だぞ。豺狼が鬼であることを忘れちゃいけない)


 豺狼は本来どのような姿で、どのような鬼なのだろうか。居祈はそう考えることで、豺狼との距離を置こうとした。魔犬の面が割れ、それまで蓄積した鬼の気が豺狼の体に還ったら――。そう考えたとき、ふいに竹林で倒した屍たちのことが思い出された。面が割れると凄まじい腐臭が屍に還った。あれと同じようなことが、魔犬の面が割れたときにも起こるのだろうか。豺狼は怨念に侵された鬼に変わるのだろうか。


 ぼんやりと考えながら天井を見上げると、この部屋の灯りが目に入った。提灯だと思っていた部屋の灯りは、ぽっと灯った鬼火だった。まるっこくあたたかみのある炎を見て、居祈は思わずくくっと笑ってしまった。


(本当の姿なんて想像しても意味がない。大蛇討伐の時に豺狼の面が割れなければいい。そうすれば何も問題ない)


 居祈は自分の中に落としどころを見つけて、それ以上考えるのをやめた。


 豺狼の帰りを待つ間、少し水を借りてそれを手のひらの中で墨に変えることができたので、腰に挿していた葦の筆を取り、左腕に文字を書くことにする。


 鬼界で無事にいること。大蛇や屍のこと。鬼女に出会い目を食わされたこと。気絶して豺狼に救われたこと。豺狼の大蛇討伐に加わることになったこと。


 人を知りたくて人と入れ替わるような好奇心の強い葦翠のことだ。鬼界のあれこれを知らせれば、便りを楽しみにしてくれるかもしれない。そう思うと筆が進んだ。


  


 遅いな――と、居祈がまだ帰らぬ豺狼を気に掛けたとき、ちょうど扉を叩く音がした。


(自分の家をノックする者はいないはず)


 居祈は何者だと警戒して身構えた。こういう時は居留守を使った方がいい。息をひそめたその瞬間、豺狼の明るい声がした。


「キヌガミ、扉を開けてくれないか。でっかい獲物を仕留めて手が塞がっているんだ」


 鬼界に来てから居祈は、豺狼にしか名を明かしていない。本当に豺狼なのか。

(一度下ろせばいいのに。下ろしてまた持ち上げるのが大変なくらいの大物なのか? )

 それを家の中で食う気だと思うと居祈の顔色が悪くなる。人間界でテレビを見ていた時、白くまがアザラシを骨になるまで食いつくす映像を観て吐きそうになった。それと同じようなことをこれから目の当たりにするのだと思うと気が滅入る。


「早くしてくれ。抱えたままでいるのも大変なんだぞ」 

「わかったよ。今開けるからちょっと待ってて」


 居祈は諦念交じりのため息をついて立ち上がり、扉を開けた。


「お帰り」


 居祈が出迎えると、魔犬の面を付けた豺狼が立っていた。部屋の中の鬼火が揺れ、外に漏れた灯りがちらちらと豺狼を照らした。黒くて分かりにくいが、面も黒衣も濡れていた。それが返り血によるものなのは明らかで、(うわ、悲惨だな……)と居祈が目を細めた瞬間、豺狼の面の牙と牙の隙間から、ごふっという暗い音と共に鮮血が噴き出した。飛んだ血が居祈の頬にかかる。


「豺狼!」

 

 居祈は青ざめて豺狼に駆けつけようとした。が、それは叶わなかった。豺狼の黒衣の腹から鬼の手が一本、突き出ていたからだ。尖った爪の先から、手の甲、手のひら、前腕の中ほどまでが赤く染まり、白い腕の腹から雨垂れのようにぽたぽたと血が滴っている。後ろから鬼に腹を突き破られたのだ。どうして! どうして――!


 ――御前は私のものだ。


 鬼女の声が耳朶に蘇る。あの鬼は居祈を自分のものだと言った。それを豺狼に奪われて、取り返しに来たのだ。そう理解したのは一瞬の出来事。目の前が真っ暗になる。


 腕が嫌な音を立てて引き抜かれ、豺狼がうめき声をあげて膝から崩れ落ちた。


「豺狼!」

 居祈はすぐさま駆け寄り豺狼の体を揺さぶる。

「豺狼! 豺狼!」

 何度も名前を呼んだ。だがもうその目は翳っていた。

「豺狼……」


「それに触るな。穢れるぞ」

 頭上から降ってきた声が信じられずに、豺狼を殺した鬼の顔を仰ぎ見る。

「豺……狼……?」

 そこには魔犬の面で前髪を上げた豺狼が立っていた。

「本当に豺狼なのか?」

「他にどう見える?」

「他にどう見えるというよりは、二人とも豺狼に見えるんだけど……」

「馬鹿か。こんな出来損ないの木偶、俺と一緒にすんじゃねえよ」

 倒れている豺狼が偽物だとわかった途端、じわりと涙が浮かんだ。

「おい、キヌガミ。お前、泣いてるのか? なんで」

「豺狼が死んじゃったと思ったからに決まってるだろ。見るなよ」

 居祈は頬に飛んだ血と涙を白い袖で拭いながら、怒ったようにあばら家の中に戻り大股で歩いた。

「おい、そんなに力いっぱい歩くな。床板が抜ける」

 居祈が注意を聞かずに扉に背を向けて座るのを見て、豺狼は呆れたように鼻から息を抜いた。それから扉を塞ぐ躯を無慈悲に蹴り飛ばし、墨の塊のようになっていたそれをぐしゃりと踏みつぶして居祈を追いかけるようにあばら家の中に入り扉を閉める。

  

 華奢な背中が、おれは怒っていると言っている。

 豺狼は肩を竦めて、居祈が見ていないことをいいことに、とても柔らかな顔付きになるのを抑えようとはしなかった。


「キヌガミ、俺のこと心配してくれたんだな。ありがとう」

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