熱国の太陽と眠らない月
老野 雨
第1話 夜盗共
昨夜、地鳴りがあった。
人々も寝静まった深夜のことで、体の内側を震わせるような低く太い震動が長いこと続いた。この地方では地鳴りは珍しく、めったにない現象はまるで不吉の予兆のようにも思えたが、しかしミカは今さら計画を中止にするつもりはなかった。
ガンダラ。一年ほど前に遠くの町からやってきた行商人だったこの男は、ミカの住む町を気に入ってそのまま居着き、以来、
宝物庫から金品を奪ってやろうと思った。
腐るほどあるのだ、少しくらいちょろまかしたところで罪にはなるまい。だいたい、もとを正せば民が飢えて貧困に喘ぐようになったのは傍若無人なガンダラの行いのせいだ。これは正しい粛正である、と、十四歳の少年は思った。
陽が落ちてあたりがじゅうぶんに寝静まるのを待ってから、ミカは行動を起こした。すでにひと気はない。大胆にも正面から堂々と屋敷の敷地内へと侵入した。見咎められる心配のないことをミカは承知していた。裏手には家畜小屋があるが、おそらくこの時分は家畜たちももう寝入っていることだろう。近づかなければ騒ぎたてられる
ミカは正面玄関の前で立ち止まると、胴巻きに忍ばせてきた道具を使って屋敷の鍵を開けにかかった。頑丈そうな錠前は、少しいじっただけでいともたやすく開いた。けっして屋敷の錠前がやわなのではない。ミカの腕が立つのだ。昔から手先は器用だったから、盗賊の真似事をよくしていた。
細く開けた扉の隙間から素早く体を滑りこませる。音を立てないよう気をつけながらゆっくりと扉を閉めなおし、しばらく様子を窺った。少し不気味に思えるくらい森閑としている。誰かが気がついて起きてくる気配はなかった。
屋敷内にも警備は見当たらない。これも計算ずくだった。
ガンダラはめったに他人を信用しないから、自分の領域には極力他人を入れたがらないのだ。寝首を掻かれるのを
ただこのアジルーという男はもっとも警戒すべき人物で、大の大人が何人束になってかかっても敵わないほど屈強な大男である。ミカのように華奢な少年であればそれこそ手も足も出ないだろう。絶対に見つかるわけにはいかない。
しかし用心棒という役目柄、アジルーは常にガンダラの傍に控えているはずだ。狙いがガンダラではなく宝物庫であれば、そうそう出くわす危険もないだろうと踏んでいた。
宝物庫は屋敷の一階、東側の突き当たりにある。対してガンダラの寝室は二階だ。数人の使用人も二階の一角にある大部屋を与えられている。
今ごろガンダラは何も知らずに自室のベッドで心地よく就寝していることだろう。きっと、ゴテゴテと無駄な装飾の施された悪趣味なベッドに違いない。想像のなかのガンダラに舌を打つ。
入念な下調べを重ねて、屋敷内の間取りは把握済みだった。母親が死んでから、ミカは今日このときのためだけに毎日を生きてきたのだ。
宝物庫を目指して薄暗い廊下を進む。廊下にもひと気はない。
誰に見咎められることもなく、あっけないほど順調にミカは目的の場所までたどり着いた。
宝物庫の扉は見るからに分厚く錠前もさすがに厳重だったが、しかしこれもミカにかかれば敵ではなかった。玄関の鍵よりはいくぶんか手間取ったものの、じきカチャリと解錠の音が聞こえた。
張りつめていた息を吐く。ここまでくれば、あともうひと息だ。
周囲にひと気のないことを再度入念に確認すると、扉の内側へ体を滑りこませる。外側に面した壁の上部に明かり取りか換気のための小さな穴が
堆く積まれた宝物を前に思わず溜息がこぼれる。そこには想像していたよりも多くの宝が集められていた。部屋の端から端までほぼ隙間なくみっしりと積まれている。壁にも豪華な額縁に入った絵画や、上等そうな織物が広げて架けてあった。
すべて、ガンダラが民衆から巻き上げた金で得たものだ。そう考えると胸の
すぐ目の前にひときわ目立つ宝箱が置かれているのが目についた。頑丈そうな大ぶりの宝箱で、その表面にも複数の宝石が埋めこまれている。色とりどりの宝石はランタンの明かりの下で複雑に
近寄って確かめてみると、鍵はついているものの施錠はされていない。宝物庫のなかに置いてあるのだからわざわざ鍵をかける必要もないと油断しているのかもしれない。
ミカは手にしていたランタンを脇に置くと、宝箱の蓋に手をかけてゆっくりと持ち上げた。
「危ない!」
カチリと何かが作動する音と、誰かの叫び声が同時にしたかと思うと、ミカの体は衝撃を受けて横様に飛んだ。部屋の陰から飛びだしてきた誰かが、ミカに思いきり体当たりをしたのだ。
床に転がり、
ひゅっ、と喉が鳴った。
侵入者を罠にかけるために、宝箱を開けると作動する爆薬が仕掛けられていたのだと遅ればせながら気がつく。派手な宝箱がこれみよがしに部屋の中央に置かれていたのもそのためだったに違いない。であれば、屋敷内の警備が手薄だったのもあるいはわざとかもしれない。ミカはまんまとガンダラの術中に嵌まったのだ。
爆薬は宝箱の周辺一帯を吹き飛ばすくらいの威力だった。至近距離で食らえばひとたまりもない。開けたものを確実に殺傷するための仕掛けと言えた。侵入者はただ捕らえるだけでは飽き足らないということだろう。現に、ミカを庇った誰かが餌食になった。
よろよろと立ち上がり、宝箱の前に転がる死体の傍に寄った。今なおじわじわと広がり続ける血溜まりがミカの足の先を濡らす。ミカを助けてくれた誰かは、爆薬をもろに食らったらしい。胸のあたりが抉れ、両腕も無惨に飛散して断面はぐちゃぐちゃになっていた。顔も半分吹き飛んでいる。残ったほうも目玉がこぼれ、虚ろな眼窩が覗いていた。かろうじて、年若い青年であることがわかる程度だ。焦げた肉のにおいが鼻をつく。
「う……、」
えずいて思わず手のひらで口を覆った。青年は、ミカと同じようにガンダラの財宝を奪おうと画策しひと足先に屋敷に侵入していたのかもしれない。
さすがに今の爆発音を聞きつけて、ガンダラの手のものがやってくるだろう。早く逃げなければ。ミカは痺れた頭で考える。今このまま逃げれば、侵入者は目の前に転がっている青年一人きりとなり、ミカの痕跡は残らない。ミカが罪に問われることはないだろう。しかしもうすでに死んでいるとはいえ、命の恩人に罪をなすりつけて一人逃げおおせることをミカは一瞬ためらった。
そのとき、宝物庫の入り口の扉が重たい音を立てて開いた。ぎくりとする。判断を誤った。もうガンダラの手のものがやってきたのだ。
ミカはこのまま捕らえられて、見せしめに大衆の前で残虐な殺されかたをするかもしれない。ひと息には殺さずに、じりじりと時間をかけて何日も苦痛を味わわされるだろう。ミカには確信があった。何せ前例があるのだ。恐怖で足が竦んだ。こめかみに冷や汗が伝う。
「死んだか? ギャリ」
ところが、入り口から入ってきた人物はミカのことなどまるでお構いなしに、その背後に向かって声を投げる。どうやらガンダラの手のものではないらしい。青年には連れがいたのだ。こちらも同じくらいの歳頃の青年で、陶器のような肌の白さが目を惹く。髪も色素の薄い琥珀色をしている。それから双眸も特徴的だった。オパールのような虹色である。
ギャリというのは、先ほどミカを庇って死んだ青年の名前だろうか。
しかし、この色白の青年はいったい何を言っているのだろう。ギャリは爆薬をもろに食らって胸が抉れ両腕は飛散し、顔も半分弾け飛んでいた。死んでいるのは明白だ。あるいは、目の前の青年からは暗がりで死角となって死体の様子がわからないのかもしれない。いや。そもそも、呼びかけがおかしい。「生きているか?」ではなく、なぜ「死んだか?」と呼びかけたのだろう。死体が返事をできようはずもないのに。
「生きてる」
そのとき、ミカの背後から声がした。息を呑んで振り返ると、死体だったはずの青年――ギャリ――が起き上がったところだった。ゆっくりとこちらに向けた顔に思わず見入る。ギャリの双眸もまた、色白の青年と同じく虹色だった。そう。双眸だ。きちんと両目が揃っている。
先ほどたしかに半分弾け飛んでいたはずの顔はすっかり修復されていた。顔ばかりではない。床の血溜まりが糸を縫うように蠢いたかと思うと、飛散した両腕までもが戻っていく。抉れた胸は内側から肉が盛り上がり、滑らかに塞がる。あっけにとられているミカをよそに、瞬く間に均衡のとれた健康そうな肢体が形成された。今や爆発の爪痕を残しているのは床に染みついて少し残った血痕と、あちこち破れた服くらいのものだ。爆薬をもろに食らった上着の損傷は特に激しく、上半身はほとんど裸と言ってよい。
「どれくらいだ?」ギャリはぐしゃぐしゃと髪を掻き、色白の青年に訊ねる。
「三十秒くらいだろう。いつもと変わらない」
「やっぱり、何度死んでも再生能力は落ちないのか、」
「もう千回も試せば変わるかもしれない」
「気の遠くなる話だな」
「時間はたっぷりある」
「それじゃあ本末転倒なんだよ」
あきれたように言って舌を打つ。それから今気がついたかのように、茫然とした表情でギャリを見つめているミカに視線を向けた。
「何だ、お前。まだいたのか。もうとっくに逃げだしてると思ったのに。それとも腰が抜けたのか? すぐにここを離れたほうがいい。さっきの爆発音を聞きつけてじき追っ手がくるぞ」
「それを言うなら、おれたちも似たようなものだ」色白の青年が口を挟む。
「違いない。すぐにここからずらかろう」ギャリは笑って立ち上がると、ミカの腕を掴んだ。「ほら、お前も」
ミカが抵抗することなくギャリに腕を引かれてそのまま歩きだしたのは、ひとえに状況の理解が追いつかずに混乱していたせいだ。
目の前の青年は、先ほどたしかに死体だった。爆発で体が吹き飛んだのも見た。広がる血溜まりがミカの足の先を濡らした感触も鮮明に思いだせる。しかしそれがすっかり元に戻り、何ごともなかったかのようにこうして元気に喋っているというのはいったいどういうことなのだろう。
ただ、ガンダラの手のものに捕まるわけにいかないのはミカも同じだ。
「警備は手薄だから、このまま堂々と正面から出よう」
二人の青年はそう話しあうと足早に正面玄関へと向かった。ミカも続く。ただし自分の意思ではない。ギャリに手を引かれたままなのだ。掴まれた手からギャリの体温が伝わってくる。きちんと、生きている。
三人が屋敷を抜けだしてからすぐに、宝物庫へと駆けていく複数の跫音が聞こえてきた。扉が開いていることに気がついたのか、とたんに忙しない怒号が行き交う。探せ、と叫んでいるようだ。声の主はガンダラだろうか。
「危なかったな」
色白の青年が背後を振り返り、苦笑混じりに息を吐いた。
「さいわい、まだこちらには気づかれてない。とりあえずこのまま安全な場所まで退避しよう」
ギャリが答えて、歩く速度を上げた。手を握られたままのミカは、引っ張られるようにしてギャリのあとをついていく。そのまま成りゆきで、二人の青年と行動をともにすることになった。
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