第6話 噂話
両親が健在だったころ、ミカは日々の生活に不安を覚えたことはなかった。質素すぎる食事やだらしのない姿ばかり見せる酒浸りの父親には不満を抱きもしたが、きっと明日もまた同じような日々がやってきて、それはずっと変わらず続いていくのだろうと漠然と考えていた。
今思えば、じゅうぶんに恵まれていたのだろう。当たり前のように享受していたから気がつかなかった。
酒浸りの父親にしてみても酔えばむしろ機嫌がよくなるくらいで、家庭内で暴力を振るわれたりだとか、ミカや母親に対して何か理不尽な行いがあったわけではない。酒が父親の唯一の娯楽であったのだろうと、死んでからは思う。
父親は粉挽きを生業としていたが、死んで廃業になった。母親もミカも、とてもではないが仕事を継ぐことはできなかった。女子供の力で粉を挽くのは難しい。
母親は酒場の給仕として働きはじめ、父親が死んでからはそれで生計を立てた。さんざん苦労させられたはずの酒に携わろうとする母親の気持ちがミカにはわからなかったが、目の前の生活を優先させたのかもしれない。あるいは、ミカと違って泥酔した父親であっても慈しんでいたのか。
父親は酒場で仲間と気持ちよく酒を飲んで赫ら顔で家に戻ってきたあとに昏倒し、そのまま死んだ。
ミカはときおり近所のおばさんの店番をして駄賃を貰っていた。
しばらくはそんなふうにして母子二人の生活が続いたが、ある日、父親と同じように突然母親が倒れて死んだ。顔色が悪かったことには気がついていたはずなのに、気がつかないふりをしていた。気づかなければそれはなかったことになるのではないかと、本気で考えていたわけではない。しかしどこかで淡い期待を抱いていたのも事実だ。要するにそれは、現実逃避だった。
両親がともに死んでからも、近所のおばさんは何かとミカの世話を焼いてくれた。つくづく人に恵まれているとミカは思う。おばさんも、ギャリも、ユーレクも、ミカに優しい。
ギャリとユーレクとはあれから毎日のように逢っていた。たいてい、二人の宿泊先にミカが半ば押しかけるようなかたちで訪ねていく。どんな時間に訪ねたとしても、二人は迷惑がることなくいつでもミカを歓迎してくれた。
それから三人は、互いに町で見聞きした噂話の首尾について報告しあった。
ギャリたちがしたのは、最初の何日か世間話にそれとなく幽霊話を織り交ぜて町をまわることだけだ。しかし噂話はギャリたちの手を離れてからも際限なくどんどんと膨らみ、一人歩きしていった。ギャリたちが話してもいない要素が付け加えられている場合も多々あった。まるで生き物のようで、実に興味深い。
首のない男が道端に立っているのを見た、と興奮気味に話すものもいた。これはおそらくユーレクの仕業だろう。部屋にあったあのサーベルで首を切り落とし、だめ押しで町に繰りだしたのだろうか。案外、ユーレクもずいぶんと乗り気なのかもしれない。
ギャリとユーレクはミカをよく町の酒場へ連れていき、食事をご馳走してくれた。行くのは最初に三人で入った若い娘の給仕がいる酒場だ。娘とはもうすっかり顔なじみになっていた。二回目に顔を出したとき、娘はすでに幽霊話を知っていた。
客足の減った酒場に頻繁に顔を出してくれるギャリたちを、娘はたいそう歓迎した。提供される料理は相変わらずお世辞にも旨いとは言いがたかったが、これもミカたちの計画がうまくいけばきっと改善されるはずだ。
ミカだけではなく、ギャリたちも同じ展望を見据えていた。
「早くうまいエールが飲みたいな」
相変わらず何かに耐えるようにぎゅっと固く目をつぶってまずいエールを干しながら、ギャリが言う。それに対して、「もうすぐだ」とユーレクが答える。
「死にたがってるのに、おいしいものには興味があるんだね」
何となくちぐはぐな感じがおかしくてミカがそう口にすると、ギャリは悪戯っぽく歯を見せてにっと笑った。
「当たり前だろう」と言う。「そりゃあ、今は生きてるんだからな。生きてるあいだは存分に旨いものを食って、楽しんで、日々を謳歌してやるんだ」
それからさらに一週間ほどが経つと、幽霊の噂は町の至るところまで知れ渡っていた。
何かと世話を焼いてくれる近所のおばさんがミカに嬉々として幽霊話を語りだしたときには思わず噴きだしそうになった。
とにかくこれだけ噂が広まれば、ガンダラの耳にも届いているに違いない。ガンダラが少しでも怯えた夜を過ごしていればいいとミカは強く思った。
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