第7話 決行
新月だった。
闇が深く落ちてあたり一帯を包みこみ、みなすっかり寝静まっている。ミカはぶるりと身を震わせた。昼間の砂漠は暑いが、夜は案外に冷える。寒暖差が激しいのだ。緊張もあって、よけいに寒々しく感じられるのもあるだろう。体に力を入れても震えが止まらない。あるいは、武者震いかもしれない。
「今夜、決行だ」
ギャリの言葉に、いよいよこのときがきたのだと気を引き締める。
今日、ミカは昼過ぎからギャリたちの泊まっている宿屋を訪ね、それからすっかり日が暮れるまでのあいだを部屋で一緒に過ごした。取り留めもない話をしているだけでいつの間にかずいぶんと時間が過ぎていた。ギャリとユーレクの二人と一緒にいるのは楽しい。こんな日々はついぞ忘れていた。
宿屋の店主は室内をうろちょろするミカの姿を見てももう何も言わなかった。毎日のように訪ねてはギャリたちにつきまとっていたから、この光景にもいいかげんに慣れたのだろう。貧民の子供への酔狂な施しがまだ続いているとでも思われているのかもしれない。
野良猫か鼠にでも向けるような視線で一瞥されるところを見ると、ミカのことを一度優しくするとすぐに増長する卑しい子供と蔑んでいるのだろう。それでも特にかまわなかった。ミカのことは、ギャリとユーレクの二人が正しく理解してくれていればそれでいい。
最近はどこを歩いていても、町では首のない幽霊の噂話で持ちきりだ。
その大半が、ガンダラに処刑されたものが恨みを抱いて化けて出たのだろうと囁きあっている。死んだ何某に似た幽霊を見たと言うものまで現れた。もちろん幽霊役はユーレクなのだから、他人の空似でさえない。そもそも、いったいどこを見て見知った人間であると判断しているというのか。首がないというのに。人は往々にして自分の都合のいいように――あるいは極端に最悪の方向に――物事を解釈するのだ。
実のところミカはここまでうまく事が運ぶとは思っていなかったから、この成りゆきには少々驚いていた。噂好きな人間のなんと多いことだろう。近所のおばさんの口からも、あれから毎日のように首なし幽霊の話題がのぼっている。その話しぶりはどこか楽しそうで、娯楽に飢えている感じがした。
人々のあいだに幽霊話がこれだけ浸透すれば、じゅうぶんに機は熟したと言えるだろう。
そう思った矢先のギャリからの招集だった。緊張で口のなかが乾いている。
「計画実行の前に、景気づけに一杯やろうか」
ミカの緊張を察したのかどうかはわからないが、ユーレクがそう言って陶器のボトルを持ちだしてきた。中身をゴブレットに注ぐ。この日のために用意していたものだろうか。
ミカは差しだされたゴブレットを受け取ると中身に目を落とした。薄く赤みがかった液体が入っている。仄かに馨しい香りが立ち上り、鼻腔をくすぐった。
「……ワイン?」
おずおずと訊ねると、ユーレクは頷いた。
「こんなときのために持っていたとっておきだ。とはいえ薄めだから、ミカでも問題なく飲めるだろう」
「それじゃあ、成功を祈って」
ギャリが音頭をとり、三人は高々と掲げたゴブレットをかちんと合わせた。最初にユーレクが口をつけ、それからギャリが続いた。ミカは二人の様子を眺め、ほんの少しためらったのち、顔を上向けてひと息に飲み干した。
「うっ、」
とたんに身を折ってゲホゲホと噎せ返る。ものすごくまずい。酒が口に合わないとか、そういう次元のまずさではない。まるで泥でも飲んだかのようだ。
ワインがだめになっているのではないかとも疑ったが、ユーレクもギャリもけろりとした顔をしている。ギャリなどはよほど旨いのか、とろりと陶酔したような目つきだ。
「大丈夫か、ミカ」
ひと息に呷ったのも悪かったのか、ミカの咳はなかなか治まらなかった。涙目になって咳きこむミカの背中をユーレクがさすってくれる。
「ゆっくり息を吸え」
「ありがとう」ミカは息をついて礼を言った。
ユーレクはそのあいだも優しくミカの背を撫で続けてくれていた。少し体温の低い手のひらの感触が心地よい。おかげでしだいに咳も治まり、落ち着いてきた。
「もう大丈夫」
「そうか。それならよかった」ユーレクがほっと息を吐く。それから申し訳なさそうな表情でミカを見た。「……士気を上げるつもりだったが、ミカには合わなかったみたいだな。すまなかった、」
「全然、気にしてないよ」
ミカは大きく首を振った。ユーレクのせいではない。
「……何だかミカにはずいぶんと優しいよな、ユーレクは」
ギャリがやや拗ねたふうな調子で口を挟んでくる。ユーレクはギャリを見て微笑んだ。
「弟を思いだすんだ」
「……弟がいたの、」
「ああ」
ユーレクは目を細めて頷き、それきり黙った。どこか遠いところを見つめている。昔の記憶に思いを馳せているのかもしれない。
ユーレクの弟はもうずいぶんと前に死んだのだろう。ユーレクと違って不死者ではなかったに違いない。ただ、とても大切な弟だったのだろうとミカは感じた。思い出に浸るユーレクの顔はとても穏やかだ。不死者として何百年も生きてきてなお、忘れずにいる。
すべてが終わったら、もっと二人の話を聞きたいと思った。
「じゃあ、ぼちぼち行こうか」
ギャリが空になったゴブレットをテーブルに置く。それから大股で部屋の隅まで歩いていって、壁に立てかけてあったサーベルを掴むと腰に携えた。ユーレクがミカの前で首を切り落としてみせようとしたこのサーベルは、ギャリのものなのだ。昔からの愛用品なのだという話を今日の昼間に聞いたばかりだった。
ただ、ギャリの言う「昔」がいつごろのことなのかは判然としない。訊ねても曖昧な答えが返ってくるばかりだ。記憶もおぼろなほど昔ということだろう。もはや骨董品の域に達していそうだが、手入れはきちんと行き届いている。
それよりも、目つきがやや胡乱なことのほうが心配だ。もしかしなくとも先ほど飲んだワインのせいだろう。これからガンダラの屋敷へ乗りこむというのに、こんな調子で大丈夫なのだろうか。まるで緊張感が感じられない。
「酔ってないから、安心しろ。むしろ調子がいいくらいだ」
ミカの視線に気がついたのか、ギャリは顎を上向けてにんまりと笑った。ぐしゃぐしゃとミカの髪を掻き回し、わざとめちゃくちゃに乱れさせる。
「やめてよ、もう」
手を振り払って抗議すると、ギャリは肩を揺らして低く笑った。それからもう一度手を伸ばしてきて、乱れさせた髪を今度はていねいに撫でつけて直す。
「お前は緊張しすぎだ」
言われて、ミカは先ほどに比べて気持ちが落ち着いていることに気がついた。ギャリなりにミカの緊張をほぐそうとしてくれたのだ。
「……ありがとう」
ギャリは微笑み、ふっと息を吐いた。
「まあ、心配するな。俺たちが協力するからには、絶対に失敗させない」
「うん」
三人は夜の闇に紛れてガンダラの屋敷へと向かった。宿屋の店主ももう寝ているのか、帳場は無人だった。音を立てないように気をつけて宿屋を出た。
闇は深く、すぐ傍を歩くお互いの姿さえはっきりとは視認できないほどだった。あたりにもすでにひと気はない。
ガンダラの屋敷へ忍びこむのは、宝物庫に盗みに入って以来だ。あのときは、ミカ一人だった。今は頼もしい仲間が二人もいる。近くにある息づかいを感じるだけで心強かった。
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