第28話 虹色

 部屋のなかには明かりひとつなく、ひどく薄暗かった。その暗闇のなかで、色の変わったギャリの睛だけが光を放ってぼんやりと浮かび上がっているように見える。

 ユーレクは一歩、ギャリに近づく。ギャリはサーベルを手にしていた。その手はひどく血だらけで、握っているサーベルも同じように血にまみれている。服の首元から胸にかけても赤黒く変色した血がべったりと付着して汚れていた。おそらく、何度も首を掻き切ったのだろう。


「ギャリ……、」

「ああ……ユーレクか、」

 名前を呼ぶと、顔を上げてのろのろと答える。声に倦怠感が滲んでいる。ユーレクがここへ来るまでのあいだ、ギャリはいったいどれくらいの時間こんなことを繰り返していたのだろう。


「俺、変なんだ、」感情の抜け落ちた表情だった。「さっきから何度も首を掻き切っているのに、いつの間にか生き返ってる」

「ギャリ、」

「ここには、俺以外にもういない」

 それでは、王妃も死んだのだ。町のほうの惨状は言わずもがなだ。守ってきた町が崩壊して、唐突にもう生きる気力が失せてしまったのかもしれない。ギャリは自殺を企てた。ところがどうしたことか、何度死んでも生き返ってしまう。


「不死者になれたんだ……」


 思わずそう呟くと、ギャリがはっとしたように目を見開いてユーレクを見た。虹色の睛。ユーレクと同じ睛だ。何かに思い当たったのか、愕然とした表情になった。おそらくギャリは、かつて自分がきれいだと褒めたその睛の色の本当の意味に気がついたのだろう。


 ギャリは唐突に上体を起こすと、ひと足でユーレクの傍まで距離を詰めた。腕を伸ばし、乱暴に胸倉を掴んで床に引き倒す。突然のことにユーレクは対応ができなかった。あッ、と喉の奥で悲鳴を上げた。手にしていた陶器の器が床を転がり、その中身をぶちまけた。忽ち絨毯に染みていく。

 ギャリはかまわずユーレクの上に馬乗りになった。手にしたサーベルをユーレクの首筋に押し当てる。


「お前なのか。お前のせいなのか。俺に……、俺に、何をした?」

「ギャリ、」

「答えろ」

 サーベルの切っ先がユーレクの喉に浅く食いこんだ。そのまま皮膚の表面を軽く突く。破れた皮膚から血が滲んだ。しかし傷つけられた箇所は目の前で瞬く間に塞がり、何ごともなかったかのようにもとの滑らかな肌へと戻っていった。ギャリは食い入るようにそのさまを眺めていた。それからくしゃりと顔をゆがめる。すべてを悟ったのだろう。


「お前が俺を、不死者にしたのか、」

「……そうだ」

「お前も不死者なんだな、」

「……そうだ」

「なぜ、そんなことを」

「なぜ? ……ギャリの手の甲に、赤紫色の痣が出ていた。あれは疫病に罹患したせいだと思う。だから、」

「頼んでいない」強い口調で吐き捨てる。

 ユーレクは唇を噛んだ。たしかにユーレクは、何も頼まれてはいない。


「おれは……おれは、ギャリを助けたかったんだ」

 弱々しく掠れた声で続ける。ふいと視線を横に向けた。そこには床に転がったままの陶器の器がある。中身はもうすっかり全部、絨毯に吸われて消えたあとだ。

「あれに、おれの血を混ぜた。……そう。不死者の血を。そうしてギャリに飲ませ続けたんだ。もしかしたら……不死者になれるかもしれないと思って。確証は、なかったけど、」

 アイシャのときには失敗している。結局、不死者になれずに死んだ。ただギャリはアイシャと違って、ユーレクの血を旨いと言ったのだ。ひょっとすると可能性があるのではないかと思った。そこに賭けることにした。

 ギャリは鼻を鳴らした。俯いてしばらく黙り、それからくつくつと笑いだす。


「そうか。そういうことか。……あの酒に。俺は滑稽にも、お前が届ける忌まわしいその酒をありがたがってせっせと飲んでいたわけだ。そうして俺も、お前と同じくめでたく不死者になったんだな。万歳、俺は助かった。俺だけは。民はみな死に絶えた! 家族も!」

 ギャリの握ったサーベルが、再びユーレクの喉を突き刺す。今度は容赦のないほどに深く、強い力だった。ユーレクの喉からごぼりと血があふれて、そして、すぐに修復されていく。ギャリはそれを忌々しげに眺めていた。


「ごめん……」

 ユーレクの虹色の睛に水の膜が張っている。最初からギャリは、こんなことは望んでいなかったのだ。自分だけ生き残りたいとも考えていなかった。おそらく最初から、最期はこの町とともに骨をうずめるつもりだったのだろう。だとしたらユーレクがしたことは、滑稽な独りよがりだ。


 謝るしかできなかった。ユーレクはただ、ギャリを助けたかっただけだった。死んでほしくなかった。本当にそれだけだったのだ。だからそのあとのことは何も考えていなかった。不死者になってしまったあとのギャリのことも。


「おれには、死んで詫びることもできない」

 ゆっくりと瞬きをする。涙が頬を伝った。

「でも、好きなだけ切り刻み続けてくれたらいい。死なないから、ギャリがもうじゅうぶんだと思えるまで、気が済むまで……」

「もういい」

 ギャリはそう言って、ユーレクを解放した。気持ちの昂ぶりを落ち着けるように、目を閉じて大きく深呼吸をする。手にしていたサーベルの血を拭い、帯刀した。


「行くぞ。ここを、離れる」そう言って歩きだす。

「……おれも一緒に?」

 そう訊ねると、ギャリは険しげな表情でユーレクを一瞥した。


「当たり前だろう。もう、俺とお前しかいないんだ。この先ずっと」


 ずんずんと歩いていくギャリのあとを、ユーレクは涙を拭い、戸惑いつつも追いかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る