第29話 伝承
長い長い昔話を聞き終えたミカは、感情を整理するために深呼吸を数度繰り返した。二人に訊ねたいことは山ほどあった。ユーレクの弟のこと、ギャリの家族のこと、二人が不死者となってからあとのこと……。
しかし何よりも気にかかるのは、ギャリの故郷である流れ渡るという町である。ミカはそれを、その話を、ずっと昔から知っている。身近なお伽噺として、寝る前に想像を巡らせ何度も反芻しては憧れ続けていた。それはもはやミカの生活のすぐ傍に寄り添うように当たり前に存在していたものだ。
「ねえ、ギャリ」ゆっくりと呼びかける。「もしかして……、」
みなまで言い終わらないうちに、ギャリはわかっていると言いたげに微笑み、頷きを返した。砂漠の向こうを見据えて高く指笛を吹く。指笛は尾を引いて、長くどこまでも響き渡っていく。
とたん、どこか遠くで地鳴りが起こった。
あの夜……ミカが決意してガンダラの屋敷の宝物庫へ侵入したその前夜に、何かの予兆のように起こったあの地鳴りと同じだ。それは徐々に音量を上げ、ゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
立ちのぼる砂煙に目を凝らす。その中心に聳え立つ影があった。町だ。町が地鳴りとともに砂漠の上を移動してきている。いや、そうではない。あれは、砂鯨なのだ。
二人はミカの住むこの町へ、ダラに乗ってやってきたのではなかった。砂鯨に乗ってきたのだ。
「黄金郷……、」少しずつ近づいてくる砂鯨の上に建つ町を眺めながら、茫然とミカは呟く。長いこと憧れ続けてきた存在が今まさに目の前にあった。
「今ではそう呼ばれているみたいだな。当時を知る俺からしてみたら、笑いを禁じ得ないんだが。まったく、いつ誰がそんなふうに呼びはじめたのやら、」おどけたような調子でギャリが言って、肩を竦める。
「ギャリは、黄金郷の王だったっていうことだよね」
「まあ、そんなところだな、」
どこか歯切れの悪さがあるのは、黄金郷と呼ばれることにいまだ慣れていないせいなのかもしれない。それとも、王と呼ばれることのほうだろうか。
「噂は概ね正しい。都は砂鯨の上に造られているし、砂鯨が砂を泳いでいくことによって都も移動する」
話のなかに出てきた中央広場の石畳に刻まれた印というのは、砂鯨を表わしているのだろう。砂鯨の体の位置と等しくなる方角に印がある。
都が滅びたのは黄色い鼠が媒介した疫病によるものだ。これも、言い伝えられている噂のとおりである。
「どうして今まで誰にも見つからなかったの。黄金郷を探して旅をしているものは昔から大勢いたはずなのに、」
広大な砂漠のなかとはいえ、誰にも見つからずに今日まで隠されてきたことが不思議だった。
「都が滅びてからあとは、砂鯨にはふだんは砂のなかに潜っていてもらうことにしたんだ。下手に見つかって騒がれるよりはそのほうがいいだろう。だから俺がこうやって呼ばない限りは、めったに地上に出てくることはない。知っているだろう。砂鯨を従えることができるのは、王家の血を引くものだけだ」
その王家の血を受け継いでいるのも、今ではもうギャリ一人きりだ。
「砂鯨も、不死なの?」
正確なところはわからないが、ギャリが不死者になってからもゆうに数百年は経っているはずだ。そのあいだギャリとともにあり続けたというのならば、もしかするとこの鯨も不死の命を持っているのかもしれない。
「いや、違う」
しかしその考えはギャリによって否定された。
「都で疫病が流行ったときには、こいつもだいぶ弱っていた。皮膚もボロボロだったしな。何とか生きながらえたに過ぎないんだ。……でもまあ、不死じゃなくとも砂鯨はもともと寿命が数千年はあるという話だからな。まだまだ俺に付き従ってくれるだろうさ」
地鳴りがおさまった。砂鯨がギャリの前で動きを止めたのだ。見れば、ほんの数メートル先の砂から大きな目玉の一部が覗いている。目玉は頭の上のほうに出っ張るようについていて、何だか蛙のような見た目だ。およそ鯨と言われて想像する姿ではない。町の至るところに置かれている砂鯨の姿とは雲泥の差がある。……当たり前だ。今まで誰も、本物を見たことはなかったのだ。
砂鯨の目玉がぐるりと動いてこちらを見た。ミカは息を呑んで、思わず一歩後ろに下がった。
「ああ、そうだ。伝承のなかでひとつだけ間違っていることがあるな」
ユーレクとともに砂鯨に向かって歩みを進めながら、ギャリが口にする。ミカも慌てて二人のあとに続いた。
「……何のこと?」
「黄金郷に、金銀財宝は存在しない。だいたい、当時から目を見張るほどの財宝なんざなかったんだが……、こういうところは伝承も当てにならないな。唯一宮殿に残っていた金目のものも、不死者になって旅を続けるあいだにほとんど俺が使い果たした。何せ旅って言うのは出費が嵩むものだからな、」
そして先立つものがなくなって困ったギャリは、道中の路銀は夜盗をして補填する方法に切り替えたのだろう。案外、ギャリには放蕩癖があるのかもしれない。もしも町に疫病が蔓延していなくとも、いずれは衰退の一途をたどっていたかもわからない。
三人はいよいよ黄金郷の入り口までたどり着いた。ちょうど砂鯨の尾のあたりだ。背中に建つ町の民家や建物は長い歳月のあいだに朽ちかけているものもあったが、廃墟という感じはしない。きっとギャリとユーレクがときどき補修をして回っているのだろう。
ミカは唇を噛み、ギャリとユーレクの顔を交互に見た。今でも一緒に連れていってほしいという気持ちのほうが強い。しかしユーレクの言うように、それは難しい話なのだということはもうミカにも理解ができていた。先ほどのように癇癪を起こして二人を困らせるような真似はしない。こぼれそうになる涙を必死でこらえた。
ユーレクがミカに手を伸ばし、抱きしめてくれる。ギャリも反対側から同じようにしてミカを抱きしめた。しばらく三人でそうしたあと、やがて温もりが離れていく。
「……じゃあな、ミカ」
ギャリが合図を出し、砂鯨がゆっくりと砂のなかを泳ぎだした。砂漠に立つミカと砂鯨の上に立つ二人のあいだに、徐々に距離ができはじめる。
ギャリとユーレクが手を振って、ミカに背を向けた。町の中央に向かってゆっくりと歩きはじめる。ミカは思わずあとを追って駆けだしたが、その距離が縮まることはない。
「ギャリ! ユーレク!」
二人を呼ぶミカの声が、砂漠じゅうに響き渡った。
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