第27話 美酒

 指先にナイフの刃を押し当てて横に引く。傷口から滴った血をゆっくりと酒のなかに落としこんでいった。酒と血が静かにゆらゆらと混ざりあっていく様子を、ユーレクは物言わず眺めた。


 ……少ないだろうか。


 すでに塞がった傷口をもう一度なぞるようにナイフを滑らせて、血を追加した。今度はいくぶん多すぎたようで、あからさまに酒の色が変わりすぎている。これではたとえいくら相手が鈍感だったとしてもなかに何かが混入されていることが丸わかりだ。悩んだ末、結局はそのままにした。最初は少々怪しむかもしれないが、こういう色の酒なのだと根気よく説明をすればギャリならきっと信じて飲み干してくれるだろう。ギャリはそれほど鈍感というわけではないが、ひどく無頓着ではある。


 うまくいく保証はどこにもない。同じように血を与え続けたアイシャは死んだ。それでも何もせずにただ手をこまねいているよりは、こうするほうがよほど有益なことに思えた。何よりユーレクは、どうしてもギャリに死んでほしくなかった。手の甲にわずかに見えた赤紫色の痣。もしもあれが見間違いでなかったとするならば、おそらくあまり猶予はない。高熱が出たという話はギャリからは聞いていなかったが、症状に個人差がないとは言いきれないだろう。


 酒の準備ができると、ユーレクは宿屋を出ていつものようにギャリのいる宮殿へと向かった。


 夜ということを抜きしても、町は不気味なほどにずいぶんと静まり返っている。逃げるものはあらかた逃げ、死ぬものはあらかた死んだあとだ。無人となった民家には、我が物顔で黄色い鼠が出入りしていた。


 縄梯子を登っていく。窓を叩くと、今日はすぐにギャリが姿を現した。


「よう、ユーレク」疲れたような顔は相変わらずだ。

「今日も酒を持ってきた」

「あまり酒盛りをする気分でもないんだがな」

「まあ、そう言うな。飲もう」


 持ってきた酒を杯に注ぐ。やはり少し不自然な色をしているだろうか。色味を確かめたあと、努めて何でもないふうをよそおってギャリに差しだした。酒を受け取ったギャリはしばらく杯に目を落としていたが、特に何を言うでもなかった。そのまま杯に唇を寄せてひと口含む。その瞬間、ぴくり、と体が震えた。

「う、」

 ギャリの喉から漏れでた声にユーレクは思わず緊張する。やはり酒がまずくなっていたのだろうか。いったいどう言って全部飲ませようか、力ずくで何とかするしかないだろうか。忙しなく思考を巡らせる。


 ところが顔を上げてユーレクを見たギャリの顔は、はっきりとわかるくらいに紅潮していた。目つきもとろんととろけている。干した杯をまじまじと見つめて、何だこれ、と呟いた。


「……ギャリ?」

「ものすごく旨い」

 呼びかけるユーレクの声と、ギャリの感想が重なった。


 ……これはいったい、どういうことなのだろう。ユーレクは信じられない気持ちで目の前のギャリを見つめた。アイシャはあんなにまずいと言っていたのに。


「これはどこの酒なんだ」

「別に、昨日と変わらない」

「そうなのか? 何だか全然違うものに感じるんだけどな」

 頻りと首を傾げている。ユーレクにとっても意外だったが、とにかく飲ませるための言い訳を考えないで済んだのはありがたかった。この日ギャリは、ユーレクが持ってきた酒をほとんど一人で飲み干した。


 次の日も、その次の日もユーレクは自分の血を混ぜた酒を手土産に持っていった。そのたびにギャリは実に旨そうに飲み干した。


 そんなふうにしてしばらく経ったころ、ギャリの弟妹が揃って亡くなったらしいという噂を聞いた。幼かった二人だろう。いよいよ疫病は王家のものも蝕みはじめたのだ。大々的な葬式などは行われなかった。幼い遺体は、ただひっそりと処理された。

 その日はいくらユーレクが呼びかけても、窓が開くことはなかった。


 しばらく、ギャリに逢えない日が続いた。


 窓はぴったりと閉めきられ、外側から呼びかけてもいっさい反応がない。ユーレクはしかたなく、血を混ぜた酒を窓辺に置いて帰った。翌日に訪ねてみると置いた酒は器ごときれいになくなっていた。周囲に落ちたような形跡もなかったから、きちんとギャリが回収したのだろう。酒と一緒に血を飲んでくれるのであれば、直接逢えなくてもかまわなかった。ユーレクは再び、持ってきた酒を窓辺に置いて帰った。


 そのあいだにも死者はどんどんと増えていき、ついに宿屋の店主が死んだ。王家の人間もまた新たに犠牲となった。今度は上の弟妹だった。


 ある夜のことだ。ユーレクが縄梯子を登ってみると、その日は窓の鍵が開いていた。

「ギャリ」

 呼びかけてみるが、返事はない。しかし部屋のなかに誰かがいる気配はあった。ユーレクは窓を押し開き、窓枠を越えてなかへと入った。すぐに、血腥いにおいが充満していることに気がついた。部屋の中央に蹲る人影を認めてどきりとする。

「ギャリ」

 呼びかけると、影が反応してゆっくりと顔を上げた。こちらを見る。


 そこには、睛の色が虹色に変化したギャリがいた。

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