第26話 蔓延

 窓の外にかけられた縄梯子をゆっくりと登っていき、閉ざされたままの窓をコツコツと叩く。しばらく待ってみたものの、反応がない。少し迷って、もう一度叩いてみる。今度は先ほどよりもほんの気持ちだけ強く。ややあって、窓辺に人の立つ気配があった。ゆっくりと窓が開く。


「ギャリ、」

 ほっと息をついて、顔を覗かせた人物に声をかける。


「……ユーレクか、」

 ギャリは顎をしゃくって室内を示すと、自分はそのまま窓辺から離れて部屋の奥へと引っ込んだ。ユーレクも窓枠を乗り越えてギャリのあとを追った。その背中を観察する。少し痩せたように思う。先ほど月明かりに照らされて見えた顔色は悪く、何だかずいぶんと疲れているような印象だ。


 無理もないだろう。ギャリはここ最近、町じゅうに瞬く間に広まっていった疫病の対処に追われているのだ。


 黄色い鼠が運んできたと思われるこの疫病は、初めに倦怠感があり、次に意識が朦朧とするほどの高熱が出る。それはいったん下がって体調もすっかり恢復したように感じるのだが、ここで油断してはならない。今度は知らないうちに徐々に皮膚が蝕まれはじめる。赤紫色の痣が斑点のように点々と浮きあがり、やがては全身を覆い尽くすのだ。そこまで症状が進んでしまえば、もはやもういつ死んでもおかしくはない状態だ。

 遺体は何か激しい暴行を受けたあとのような、凄惨な見た目を呈する。


 疫病の蔓延によって、町は驚くほどあっさりと崩壊していった。対処するすべをまるで持たなかった。もともとずっと閉じた世界のなかですべてが完結していたせいで、未知の――少なくともこの町にとってはそうと言える――疫病を、いったいどうすれば排除できるのか、その方法がわからないのだ。

 もちろん罹患者の隔離や遺体の念入りな処理は行っているものの、根本的な治療法は不明のままだ。結果的に疫病はさらに猛威を振るうことになり、町からは人の姿が一人消え、二人消えた。隣人が消え、老人と子供と妊婦が消えた。


 椅子に座ろうと動いたギャリが、自らの足に躓いてふらついた。ユーレクは慌てて傍に飛んでいき、その体を支える。


「大丈夫か、ギャリ」

「すまない」弱々しい声が返る。それから顔を上げて表情を取り繕った。「ただほんの少し、疲れているだけだ。問題はない」


 そんなものが嘘であることはあきらかだ。今のギャリには、およそこれまでのギャリらしい明朗さがない。しかしそれを声高に指摘することもユーレクにはできなかった。ギャリは必死にユーレクを心配させまいとしている。


 沈鬱な面持ちになりながら、ユーレクは手に持ってきていた陶器の器をギャリの前に掲げて見せた。


「ほら、酒を持ってきたんだ。一緒に飲まないか。少しは気分転換にもなるだろう」

 テーブルの上に置かれていた、いつも酒盛りに使っている杯を勝手に引き寄せて中身を注いでいく。ギャリは黙ってユーレクの手元を見つめていた。


 今日の酒は、ユーレクが適当に選んで買ってきたものだ。先日、酒屋の店主が亡くなった。店は今、その女房が代理を務めているのだが、彼女は旦那ほどには酒に精通していないからユーレクに酒についての助言をすることは難しい。

 それでも、ふだんどおりに営業してくれているだけでありがたかった。民衆のなかには早々に見切りをつけて町を離れていったものも多い。厖大ぼうだいな死者と離反者によって、町の荒廃はいよいよ進む。

 最近はいよいよ町も荒れ果てて、地面はひび割れ赤黒い汚れが点々と道を埋めていた。

 酒屋には店じまいをすると言われるまでは通うつもりでいるが、それは案外にすぐ訪れるのではないかという予感もしていた。隠しているつもりのようだったが、女房のほうも何だかひどく具合が悪そうに思えた。


 酒を注いだ杯をギャリに差しだす。

「ありがとう」

 ギャリは礼を言って杯を受け取ると、中身をほんの少しだけ飲んだ。それから射るような視線でユーレクを見る。


「お前はいつまでここに来るつもりでいるんだ、」

「……最初に酒盛りに誘ったのはギャリのほうだろう。おれはその要望に従ってここに酒を持ってきているに過ぎない」

「そういうことじゃない。あのときと今とじゃまるきり事情が違うだろう。それじゃあ、質問を変える。お前はいつまでこの町にいるつもりなんだ」

 蜜を落としたような月色の睛がまっすぐにユーレクに向けられている。ユーレクは自分のぶんの杯を干してしまうと、新たに酒を注いだ。


「ギャリはおれに、この町から出ていってほしいのか」

 自分でも意地の悪い質問だと思った。

「そうは言ってない」神経を逆撫でしただろうか。もどかしげな口調になる。「ただ、お前はもともとここの町のものじゃないだろう。事態がさらに悪くなる前に、ここを出たほうがいいと思うだけだ」

 早々に見切りをつけて出ていった民衆と同じようにということだろうか。

「……出ていくのは自由だ、」

 ユーレクの考えを察したのか、溜息混じりにギャリは続けた。


 ギャリがユーレクの心配をしてくれているのはわかっている。しかしユーレクは不死者であるから、本来そんな心配はする必要もないのである。ただそれをギャリに打ち明けるわけにもいかなかった。

「おれは大丈夫なんだ」

 結局、そう言うにとどめる。案の定、ギャリがそれで納得するはずもなかった。


「お前がそうまでしてこの町にとどまる理由はいったい何だ?」

「……そんなもの、考えるまでもないだろう、」


 ギャリがいるからだ。


 王であるギャリは、おそらく最後までこの町から逃れることはできない。ならばユーレクも同じだった。この状態のギャリを置いて町を離れるという選択肢は、ユーレクにはない。


「変なやつだな。……もう、逢えなくなるかもしれないのに、」

 ギャリは笑って杯を口に運ぶ。


 ふとその手の甲に、赤紫色のわずかな痣を見た気がした。

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