第25話 鼠

 鼠が一匹、足元を掠めるように駆けてきて、そのまま道の向こう側へと素早く走り去っていった。どうやらパン屋のほうから出てきたようだ。

 ユーレクは一度立ち止まって道の向こうを振り返る。濃い黄色の毛皮をしたその小さな生き物を目を凝らしてもっとよく見てみようとしたが、そのころには鼠はもうすでにどこかの細く小さな隙間へ逃げこんだあとだった。

 後ろ髪を引かれながら、パン屋の扉を押し開ける。


「ああ、ユーレクさん。いらっしゃい。……どうかなさいましたか、」

 店内に入ってからもなおも道の向こう側を気にしていると、パン屋の店主が親しげにそう声をかけてきた。


 ユーレクがこの町にやってきてから、実に一年あまりが経とうとしていた。最初は見慣れない胡乱な存在だったはずのユーレクも今ではもうすっかり町に馴染んで、ありがたいことに道を歩いていれば気さくに声をかけてくれる人も多い。

 ギャリの友人だからという部分も大きいだろう。この点に関しては、最初にユーレクを認めてくれたギャリに感謝しなければならない。ギャリとはあれからも、ほぼ毎晩窓辺での酒盛りを続ける仲だ。もちろんギャリのほうからユーレクの下宿先を訪ねてきて、流れでそのまま酒場へ連れだされることも多い。


「……今、鼠が、」

 半ば独りごちるように口にする。

「鼠?」パン屋の店主は裏返った声で繰り返し、帳場から少し身を乗りだした。きょろきょろとあたりを見回し、首を傾げる。「ちっとも気がつきませんでした。……うちから出ていったんですか?」

「そう見えました」

 ユーレクは頷いた。あれはたしかにほかの何ものでもなく鼠だったし、このパン屋から現れて道の向こうに消えていった。間違いではない。


 この砂漠の町にも、鼠はいる。ユーレクが下宿している宿屋にもときおり現れることがあって、トタトタと床を鳴らして走りまわるのでよく眠りを妨げられている。

 砂漠の炎天下を一人で旅していたときとは違って、最近ではもうあまり悪夢は見ないようになっていた。今のところ生活も落ち着いていて、親しいと呼んでも差し支えのない間柄の友もでき、安息があるのだろう。

 それでも眠られぬ夜があったときには、必ず枕元にアイシャのナイフを置くようにしていた。ナイフがきちんと傍にあるのを確かめるだけで心強かった。


 それにしても、鼠だ。


 宿屋で見かける鼠はもっと体が小さく、毛皮の色も薄茶色をしていたように思う。先ほど見かけた鼠は濃い黄色の毛皮をしていたし、体つきもひとまわり大きかった。あんなものは今までに見たことがない。いったいどこからやってきた鼠なのかと、先ほどからユーレクはどうにもそれが引っ掛かってならなかった。

「もしかすると、よその町からついてきたのかもしれません」ゆっくりと思いだすように視線を動かしながら、パン屋の店主が言った。「先日、パンを焼くために立ち寄った町で多めに粉を仕入れましたから」

 パンの粉はこの町ではあまり自給自足ができないので、よその町から仕入れているもののひとつだった。町は流れ渡っているために固定の取引先などはなく、当然この町に行商人が訪れるわけもなく、その都度行き着いた町から適当に買い求めている。そのため粉の品質によってパンの仕上がりもまちまちになり、ときおり歯が欠けそうになるほど固いパンを売りつけられることになるのだが、そこはご愛嬌というべきだろう。


 鼠が、買いつけた粉の袋にまぎれてほかの町からこの町まで一緒にやってきたという可能性はじゅうぶんにあり得る話だった。

「何ていう名前の鼠なんでしょう」

「さあ、種類についてはちょっと詳しくわかりませんね。鼠は鼠ですよ。それより、鼠獲りを仕掛けておかなけりゃあ。うちは食べ物を扱っているぶん、どうしたって信用問題に関わりますからね」

 きっと捕まえてみせますからこのことは他言無用にしておいてください、と、冗談とも本気ともつかないことを言う。ユーレクは曖昧に頷いた。


 パン屋の店主との会話はそこで途切れて、ユーレクは店先に並んだいくつかのパンを買い求めると店を出て今度は酒屋へと向かった。

 夜にギャリと酒盛りをするための酒を買い求める。酒盛り用の酒の用意は毎度ユーレクの担当だった。手土産のつもりでいるから不満はない。

 ただユーレクはギャリほど多くの酒は飲まないので、銘柄の違いなどは正直よくわかっていなかった。だから毎度、酒屋の店主に勧められるままにただ購入した酒を持っていっているのだが、ギャリはどんな酒であってもいつでも旨そうに干す。結局、酒であれば何でもよいのかもしれない。


 酒を買い求めたあとは、宿屋へ戻った。

 先ほど黄色い鼠を見たときに感じた据わりの悪い厭な予感は終始つきまとっていたものの、夕食の準備や雑事をこなすうちにすっかり忘れてしまっていた。パン屋の店主に言われたからというわけではなかったが、そのときのユーレクはそれをさほど深刻なことだとは思っていなかったのだ。夜になればギャリのいる宮殿に出掛けていき、楽しく酒を飲み交わして帰った。


 どうして覚えておかなかったのか、どうしてギャリに相談しようとは思わなかったのか。思い返すに失策だった。もちろんユーレクが行動を起こしていたところで、必ずしも結果が変わったとは限らない。それでも何もしないよりは遥かにましだった。


 ユーレクが何日か後に再びパン屋を訪れたとき、パン屋の扉は閉まっていた。店の前に人だかりができている。ひそひそと深刻そうに話す声があちこちから聞こえてきた。

「今日、パン屋はやっていないんですか、」

 近くにいた女性に声をかける。何があったのか事情がわからない。女性はユーレクを振り返ると、ああ、と息を吐いた。困ったように小首を傾げ、頬に手のひらを当てる。

「それがね、昨日、店主が亡くなったみたいなんですよ。何だかちょっと前から具合が悪かったらしくて」

 驚いて言葉が出なかった。数日前に店で話をしたときには、まったく元気そのものという感じだった。それがこの数日のあいだにこうも急激に体調を崩して亡くなることになるとは、いったい何があったというのか。


 パン屋の店主の死を皮切りに、それから町ではあちこちで体調を崩すもの、亡くなるものが出はじめた。


 疫病だった。

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