第20話 別離

 老いはアイシャの体を確実に蝕み、具合は日に日に悪くなっていった。目に見えて足腰が弱り、家のなかを少し移動するだけでもおそろしく時間を要する。ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返した。何かの用事のために立ち上がって歩かなければならなくなったとき、アイシャは決まって苦痛そうに顔をゆがめた。小さなころ、あんなに外を駆けずりまわるのが好きだったのが嘘のようだ。


 階段をのぼるのも困難になっていたから、ユーレクは一日の時間のほとんどをアイシャと一緒に一階の居間で過ごした。

 居間にある椅子がアイシャの定位置となり、あまり歩きまわれないアイシャのためにユーレクが身のまわりの世話をするようになった。


 久しぶりに外にも出た。生活に必要なものを買いに行かなくてはならない。玄関の扉を開けるときには緊張で指先が震えた。それでもアイシャのためと思えば耐えられた。


 町ですれ違う人のなかに知り合いがいたのかどうかはわからなかった。いたとしても年老いて判断がつかないか、あるいはもうとっくに死んでいるかだろう。それに病弱だったユーレクはほとんど家から出ることがなかったから、もともと知り合いらしい知り合いもいなかった。


 孤立した老人が一人で住んでいると思われていた家に突然現れて出入りするようになった見慣れぬを、みなが奇異の目で見ていることは知っていた。ただ、じかに話しかけて事情を探ろうとするものもいなかった。遠巻きに様子を窺っているだけだ。たんに怖れられていたのかもしれないが、ユーレクにとってはそのほうがありがたかった。そういった視線を受け流すすべもだんだんと覚えていった。


 そんなふうにして季節が一巡し、二巡した。


 アイシャの容態はいよいよ悪くなり、定位置を居間の椅子からベッドへと移した。食事以外の時間はほとんど寝ているか、ぼうっと外の景色を眺めているかだ。話しかけても反応は鈍い。


 ユーレクがスプーンで掬って口元に運んだ重湯がうまく飲みこめず、口の端から垂れる。垂れた重湯を拭おうと口元に布をあてがったそのとき、皺ばんだ細い手が唐突にユーレクの手首を掴んだ。

「アイシャ、」

「兄さんが憎い……」ゼイゼイと掠れた声で弟は言った。ユーレクを見つめる目の奥に、激しく滾る感情の渦があった。「苦しくて、痛くて、今にも気が狂いそうだ。でも、兄さんは少しも変わらない……。少しも、」

 かさかさと乾いた指先がユーレクの滑らかな肌の感触を確かめるように撫であげる。それから思いのほか強い力で握りしめられた。アイシャの爪がユーレクの皮膚に食いこみ、傷をつける。破れた皮膚から血が滲み、そして、すぐに修復されていった。


「死にたくない……」

 嗚咽混じりに呟くアイシャのその声が、ユーレクの耳にまとわりついていつまでも消えなかった。


 何とかして、アイシャを助けたい。その日からユーレクは取り憑かれたようにそのことばかりを考え続けた。たった一人の弟を失いたくない気持ちはユーレクも同じだった。だが、どうすれば?


 アイシャの体は確実に死に向かっている。これが風邪や怪我であるならば、医者に診せればよいだろう。適切な薬や処置があれば恢復かいふくが見込める。だがアイシャは命が摩耗され、限界を迎えようとしている状態だ。医者も薬も役に立たない。


 いや。薬であれば――それが薬と呼べる代物なのかはわからないが――ひとつだけ、手はある。不死者の、血肉だ。


 ユーレクはさまざまな薬や祈祷やまじないを受けて、その結果、不死になった。その血肉を取りこめば、同じように不死者になれる可能性はじゅうぶんにあるだろう。むしろそれ以外に選択肢はない。


 ナイフを手に取る。ためらいなく指先を切ると、アイシャのために用意していた重湯に数滴の血を混ぜた。スプーンで満遍なく掻きまわす。念のために味見をしてみたが、ふだんと変わらないように思えた。もう少し血を混ぜるべきか迷い、最初はこのまま様子を見ることにした。

 ベッドで眠るアイシャのもとへ重湯を持っていく。

「アイシャ。食事だよ」

 呼びかけると、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。このごろは、起きている時間がひどく少ない。


 スプーンで掬った重湯に息を吹きかけて冷まし、アイシャの口に運ぶ。アイシャはおとなしく口を開いた。だが、その口に重湯を流しこんだとたん、アイシャの肩が跳ね、目を見開いてげほげほと噎せ返った。

「アイシャ!」

「まずい……」

 口のなかの重湯を吐きだす。

 ユーレクの血を混ぜたせいだろうか。さっき味見をしたときには、いつもの重湯と何ら変わらないように思えた。アイシャが吐きだした重湯の始末をし、口元を拭ってやる。

 ユーレクはもう一度重湯を味見してみた。やはり先ほど食べたときと同じだ。昨日までの重湯と味は何ら変わらない。それでは、アイシャだけがこれをまずいと感じているのだろう。このまま与え続けて大丈夫なのか不安がよぎる。しかし、選択肢はほかにないのだ。


「まずいかもしれないけど、我慢して。……薬を混ぜたんだ。きっと、明日にはよくなるから」

 重湯を掬い、再びアイシャの口元へと持っていく。アイシャはしばらくスプーンの上の重湯とユーレクの顔を見比べて何ごとか考えていたが、やがてゆっくりと口を開いた。重湯を流しこむ。アイシャは目を閉じて眉間に皺を寄せながら、やっとといった様子で重湯を嚥下した。時間をかけてすべての重湯を食べきると、疲れたように眠りこんだ。


 ユーレクはそれから毎日、自分の血を混ぜた重湯をアイシャに与え続けた。そのたびにアイシャは目を閉じて眉間に皺を寄せながらゆっくりと時間をかけて重湯を食べきった。食べたあとは疲れたように眠りこむ。


 ユーレクの血を与えたことによってアイシャが体に不調をきたすことはなかった。しかしまた反対に、よくなることもなかった。


 死にたくない、死にたくない、とアイシャは何度も繰り返した。そうしてユーレクの手首を爪が食いこんで血が滲むまで握り続けた。ユーレクも何とかアイシャを助けようと必死だった。


 それでも結局、ユーレクの願いは叶わなかった。


「死にたくない……」

 ほとんど吐息ばかりとなった力のない声で、アイシャが呟く。頬の肉も鼻の肉も削げ落ち、顔色は紙のように白い。命の灯火が消えかけていることはユーレクにもまざまざとわかった。

 アイシャが、ゆっくりとユーレクに視線を向ける。その表面は膜を張ったように潤んでいた。皺ばんで枯れた手がユーレクに向かって伸ばされる。

「死にたく……ない……なあ。兄さんが……独りに、なってしまう……」

「アイ……シャ、」

 ユーレクに触れる直前で、アイシャの手がぱたりと落ちる。

 それきりアイシャは目覚めなかった。



 アイシャの埋葬が済むと、ユーレクは家のなかの荷物をまとめた。この土地を離れようと思った。持っていくものは最小限にとどめる。家や家財道具は捨て置くつもりだった。

 最後に、テーブルの上に置かれていたナイフを手に取る。アイシャが愛用していた――かつてユーレクのために木彫りの動物をよく彫ってくれた――ナイフだ。お守り代わりに懐へ忍ばせる。

 玄関の扉を閉めると、ユーレクは一度も振り返らずに歩きだした。


 さよなら、アイシャ。

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