第19話 歳月

 ある日――それがもはや正確にいつのことなのかはわからなかったが――ユーレクはふとした予感を覚えて、実に久しぶりに部屋を出た。両親とアイシャとはもうずいぶんと顔を合わせていなかった。ずいぶん、というのが数年なのか、数十年なのか、はたまた十数年なのかもはっきりとしない。とにかく、うんざりとするほどに長いあいだだ。


 ゆっくりと階段を降りる。家のなかの様子が大きく変わっていることはなかったが、何だか家全体がユーレクの記憶よりもだいぶ煤けて見えた。足元の階段も必要以上にぎしぎしと軋む。これほど耳障りな音を立てる階段だっただろうか。

 太陽はもうとっくに昇っているはずだったが、昼なのか夜なのか判然としない。どの部屋も薄暗いせいだ。


 台所へ入ったところで、思わず息を呑んだ。見慣れない老人がそこにいた。


 頭には銀色にも見える白髪が産毛のようにごくわずか残っているのみだ。顔じゅうに深い皺が刻まれ、点々とシミが浮いている。頬や口元の筋肉は垂れ下がり、顎と首の輪郭を曖昧にしていた。

 老人は台所で何か作業をしていた様子だったが、やってきたユーレクに気がついて顔を上げた。黄色く濁った、感情の読み取れない目がこちらを見ている。


「……誰だ。何をしにここへ、」

 問いかけた声はひどく掠れていた。久々に発声したせいだ。誰かと話すことももうなくなっていたから、声の出しかたをすっかり忘れている。


 老人は答えない。


 ユーレクは台所の入り口に立ったまま老人と距離をとり、その動向を窺った。どこからか侵入した浮浪者が食べ物を求めて家捜しをしているのかもしれないと思った。突然襲いかかってこられないように警戒を強める。

 老人は見たところ筋力もだいぶ衰えていて、立っているのもやっとといった状態だった。さすがに直接組み合えば二十代の肉体を持つユーレクのほうが強いだろう。ただ、万が一ということもある。


 家のなかには、胡乱な老人以外に誰の姿もない。両親とアイシャはどこへ行ったのか……。


 室内に視線を走らせるユーレクを見て、突然、目の前の老人が笑いだした。痰の絡んだ笑い声だった。喉に絡んだ痰に、途中でげほげほと噎せ返っている。

 ユーレクは急に笑いだした目の前の老人を、ひどく奇妙なものを見る眼差しで見つめていた。


「誰を探してるんだ、兄さん」

 やがて老人が笑いやんで言う。ユーレクは驚いて、目の前の老いさらばえた男の姿をまじまじと見た。相手も濁った目でユーレクを見返してくる。


「……アイシャ?」

 信じられない思いで呟く。老人は戸惑うユーレクを見て鼻で嗤った。ユーレクは、目の前の老人から必死でアイシャの面影を探そうとした。背中をさすってくれた小さかった手、利発的な表情、日なたのにおい……。どの記憶も、目の前の老人とはいっこうに結びつかない。

「……本当にアイシャ?」

「嘘をつく必要がどこにあるんだ」

「父さんと母さんは、」

「死んだよ。とっくに。兄さんはずっと部屋から出てこなかったから知らなかったろうね。でも、考えてもみてくれ。弟の僕がなんだ。父さんと母さんが今でも生きていると思うのかい。……兄さんとは違うんだ」

 思考が追いつかずに頭が痺れてくる。まさかそれほどまでに歳月が過ぎていたとは思ってもいなかった。煤けた家の壁が目に入る。

「兄さんは少しも変わらないね。本当に、少しも」

 アイシャは濁った目を頻りと細め、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。おそらく、視力もだいぶ衰えているのだろう。目の前のユーレクの姿がうまく見えないのだ。


「……ずっと、この家にいたのか」

「そうだよ。兄さんと同じくね。部屋の扉の前に、食事は欠かさず置いてあっただろう。あれは途中からずっと僕が届けてたんだ」

「家を出ようとはしなかったのか、」

「出たくても出られなかったんだよ。行き場なんてなかった。うちはもうだいぶ前にまわりから孤立していてね。……兄さんの噂は隠していても隠しきれなかったから」

 話しながら苦しげにゼイゼイと息を吐く。だんだんと呼吸が荒くなってきている。アイシャは皺ばんだ震える手を伸ばして近くにあった椅子を引くと、ほとんど倒れこむようにして座った。背中を丸めて、痰の絡んだ咳を繰り返す。何か病を患っているのかもしれない。


 ユーレクはおずおずとアイシャの傍に近づくと、丸められたその背中を撫でた。かつて喘鳴で苦しんでいたユーレクを幼いアイシャが撫でてくれたように。ユーレクの手が触れた瞬間、ぴくりと一瞬アイシャの肩が揺れたが、それだけだった。

「何か、病を?」

「この歳になれば体じゅうどこでも壊れてくるよ」


 見れば、台所には食事の用意が途中になっている。水を張った鍋と、切りかけの野菜があった。おそらく二人分だ。これから準備をしてユーレクのところへも届けるつもりだったのだろう。食べなくても、ユーレクが死ぬことはないというのに。いや、やはりそれは罪滅ぼしだろうか。

「……準備、おれがやるよ。アイシャはそこに座ってて」

 ユーレクは台所に立って包丁を握ると、途中になっていた野菜を切っていった。火を熾し、切り終えた野菜を入れていく。

 二人分のスープを食卓に並べた。アイシャと向かい合って座る。小刻みに震えるアイシャの手にそっとスプーンを握らせた。


 その日ユーレクは、久しぶりに誰かと一緒に食事をした。

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