第18話 変貌

 ただほんの少し、睛の色が変わっただけだ。べつだんたいしたことではない。


 初めのうち、ユーレクはそんなふうに考えていた。あとから思い返してみればそれはひどく楽観的にすぎたのだが、そのときは深刻に考えるだけの要素も見当たらなかった。両親から受け継いだパールブルーを失ったことは残念ではあったものの、それよりも思うように動ける体を手に入れたことが嬉しかった。今のユーレクは、こうしたい、ああしたいと思ったことを一人で難なくこなせる。


 母がユーレクの睛の変化に動揺を見せたのはほんのわずかのことで、すぐに体調がよくなったことを喜んでくれた。涙をこらえて声を震わせる母を、ユーレクは何十分もかけて懸命に宥めなければならなかった。

 父とアイシャも初めは母と同じ反応を見せたが、すぐに我がことのように祝福してくれた。


 その晩の食事はいつもよりも豪勢だった。母が腕をふるって作ってくれた。これまでは少量食べるだけでも精一杯だったというのに、この日はむしろ物足りないと感じるほどだった。胃腸の調子もよくなったらしい。


 ユーレクの体がよくなると、アイシャは何かと理由をつけてユーレクを外に連れだしたがった。もう十五歳になって際限なく外を駆けずりまわるようなことはなくなっていたが、きれいな花の群生する場所や、とっておきの景色が見られる場所にユーレクを案内してくれた。ユーレクと一緒に遊べなかった時間を取り戻したかったのかもしれない。ユーレクも、ベッドに横になりながらただ憧れるだけだった外の景色を目の当たりにできたことに人知れず胸が高鳴った。


 新しい生活は順風満帆に進みはじめたように感じた。実際、途中まではうまくいっていた。しかしもちろんそれはしょせん錯覚でしかなかったのだ。


 最初の違和感は、アイシャに誘われて散歩に出たある日のことだ。


「あ、小鳥」

 木の枝に止まった瑠璃色の小鳥に目を奪われて、ユーレクの横を歩いていたアイシャが突然駆けだした。このあたりではあまり見かけない珍しい鳥だったから、近くでもっとよく見てみたいと思ったのだろう。


「待って、アイシャ、」

 弟のあとを追おうとユーレクも慌てて走りだした。その瞬間、足を縺れさせてその場で派手に転倒した。今までベッドで寝ているばかりで運動らしい運動をしてこなかったから、まだ瞬発的な体の使いかたを掴めないのだった。


 運悪く、転んだ先に断面の鋭い小石があった。ユーレクはその上に思いきり手をつき、小石が手のひらを傷つける。ちりッと焼けるような痛みに思わず顔を顰めた。


「兄さん!」

 気がついたアイシャが、慌ててユーレクのもとへと駆け寄ってくる。アイシャの大声に驚いた瑠璃色の小鳥は、止まっていた木の枝から遠く空へと飛び去っていった。

 ユーレクは地面にしゃがみこんだまま、自分の手のひらを見た。小石で引っかけた部分の皮膚が裂けて血が滲んでいる。


「大丈夫? 兄さん」

 アイシャはユーレクの前にしゃがみこむと、その手をひったくるようにして己の眼前に引き寄せ、怪我の状態を確認した。まるで怪我をした部分から即座に破傷風になるとでも思っているかのような慌てっぷりだ。病弱だったころの感覚が抜けないのだろう。


「大丈夫。何ともないよ」

 そう答えて掴まれたままの手を引こうとしたそのとき、信じられないことが起こった。滲んだ血がぷくぷくと泡立ち、傷口が一瞬にして塞がっていく。裂けた皮膚も血の痕もそのいっさいがきれいに消え失せ、あとにはもとの滑らかな肌がそこにあった。


 はっとなって顔を上げる。アイシャが驚いた様子でユーレクを見ていた。口の端がわずかに震えている。目のなかに一瞬怯えが浮かんだことを、ユーレクは見逃さなかった。


 同じようなことは何度も起こった。たとえば母の料理を手伝おうとして火傷を負ったとき。アイシャに習って木彫りの人形を彫るためにナイフを扱い、誤って手のひらを切りつけたとき。

 どんな状態の怪我であっても、それは例外なく瞬く間に修復された。種類や深さ、範囲によって修復が完了するまでに多少の時間の差はあったが、それも微々たるものだ。


 何が起こっているのかわからなかった。いったい、自分の体はどうなってしまったのだろう。戸惑うユーレクをよそに、家族の目はしだいに恐怖に染まっていった。


 五年も経つころには両親もアイシャでさえもあからさまにユーレクを忌み、遠ざけるようになっていた。五年前のあの日からユーレクの姿は何ひとつとして変わっていなかった。今ではアイシャのほうが大人びて見えるほどだ。


 このころになると、自分の身に起こった変化についてユーレクも正しく理解していた。自分は、不死者になったのだ。


 何度も自殺を試みたがことごとく失敗していた。どれほど心臓を深く貫いても、頸動脈を掻き切っても、死ぬことはない。傷つけられた傍から体は修復を開始した。


 ユーレクは再び家の外へ出られなくなった。今度は幽閉だ。家族としてもこの状態のユーレクを他人に晒すわけにはいかなかったのだろう。誰かに知られたら家族がどうなるかわからない。まさか化け物になってしまうなんて、と母はさめざめと泣いた。

 ユーレク自身、もはや自分が人間だとは思わなかった。何をされても死なないだなんて、そんなものはたしかに化け物と呼ぶしかない。


 ひっそりと家を出てどこかにゆくえをくらませることも考えたが、結局は踏ん切りがつかないままだった。自分が姿を消したあとの家族のことを想像すると胃のあたりがひどく重たくなった。きっと両親もアイシャも、心底ほっとして胸を撫で下ろすだろう。そしていずれはユーレクのことを忘れ去る。

 まだ受け入れてもらえる余地があるのではないかとどこかで期待してもいた。家族に再び受け入れてもらうためには何をすればよいだろうか。そんなことばかりを考えて過ごした。


 ある晩のことだ。家に夜盗が入った。


 そのときユーレクは部屋で一人、眠りに就いていた。深夜のことで、ほかの家族もみな眠っていた。家のなかは静かだった。

 ユーレクは誰かが扉を開けて部屋に入ってくる気配を感じて目を覚ました。すぐに夜盗だと思ったのは、相手が警戒するようにこちらの様子を窺っていたせいだ。


 夜盗はしばらく部屋のなかでじっとしていた。ユーレクも眠ったふりをしながら、相手を取り押さえる隙を狙っていた。やがて夜盗が跫音を殺してユーレクの眠るベッドの傍にやってきた。距離がじゅうぶんに近づいたのを確認して飛び起きようとした瞬間、突如、胸に熱さと激痛を感じた。見下ろせば深々とナイフが突き立てられている。ふつうならば即死だったろう。ナイフは正確に心臓を貫いていた。しかし不死者になったユーレクが死ぬことはない。


 胸に突き立てられたナイフの柄を掴んで引き抜き、床に放った。傷口はすぐに塞がっていく。


 暗闇に手を伸ばし、逃げようとする相手の腕を掴む。力一杯投げ飛ばした。夜盗が床に倒れこむ。ユーレクはベッドから飛び降りると、そのまま後ろから羽交い締めにした。


 気分が高揚していた。ようやく自分の役割が見つかったと思った。不死者であればこんなふうに危険な立ち回りもこなせるのだ。それはつまり家族を守ることができるということだ。


 ユーレクは夜盗に一撃食らわせてやろうと、相手を仰向けにして馬乗りになった。振り上げた拳が固まる。


「母さん……」


 愕然と呟いた。月明かりが照らしだしたその顔は間違いなく母だった。


 母は顔を覆い、小さく震えながら声を殺して泣いていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返している。それがユーレクに対する所業に対してなのか、ただ自分が救われたい一心なのかはわからなかった。ユーレクには何もかもわからない。


 それからユーレクは自室からもほとんど一歩も出ることがなくなった。食事は欠かさず部屋の外に運ばれていたが、ユーレクを心配してのことではないだろう。きっと、罪滅ぼしだ。そもそもユーレクは食事をとらずとも餓死することはない。ただ胃が空っぽだと、強烈な飢餓感がいつまでもつきまとった。我慢ができなくなると部屋の外に用意された食事を無造作に口に詰めこんだ。


 そんなふうにして、また何年かが過ぎていった。しだいに時の流れさえわからなくなってくる。

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