第17話 出生

 ユーレクは、北方のある裕福な地主の長子として生まれた。


 夫婦はたいそう仲がよかったが、長年子供が授からないことが悩みだった。毎朝毎晩、神へのお祈りを欠かさなかった。妊娠がわかったときには抱きあって泣いて喜び、また神に感謝した。日に日に膨らんでいく妻の腹を夫は愛おしそうに何度も撫でた。


 妊娠後期に差しかかったある朝、食事の準備をしている途中で妻が突然その場に倒れこんだ。歯を食いしばり、腹を押さえて唸り続ける。こめかみには脂汗が浮いていた。股ぐらが濡れている。予定より二か月も早い破水だった。夫は慌てて医者を呼びに走った。


 出産は困難を極めた。待っているあいだ、夫はただ神に祈るしかできなかった。いっときは母子ともに生死の境をさまよったが、夫の祈りが通じたのか妻は気力を持ちなおして無事に出産を終えた。生まれた男児はとても体が小さく、ひどく病弱だった。

 それでも、やっと授かった子宝だ。夫婦は赤ん坊にユーレクと名づけて特別に慈しみ、大事に育てた。


 体の弱いユーレクは常にどこかに異常をきたしているような状態で、体調が悪くない日はなかった。外に出ることはめったになく、日がな一日ベッドの上で過ごすような毎日だった。退屈ではあったが、それでも寂しくはなかった。母がユーレクの傍についてあれこれ世話を焼いてくれた。ユーレクが生きながらえることができたのは、両親の手厚い看病のおかげだろう。


 ユーレクが六歳になるころ、弟が生まれた。両親にとっても待望の第二子だった。二人はまた神に感謝した。ユーレクと違ってふくふくと大きく生まれた弟はアイシャと名づけられた。それからは優しい両親と可愛らしい弟のアイシャと四人の生活がはじまった。


 アイシャは活発で体も丈夫だった。よく食べてよく眠り、よく遊びよく喋った。体を動かすことが好きで、しょっちゅう外を駆けずりまわっているような少年だった。兄であるユーレクに懐き、慕った。


 アイシャは部屋から出られずベッドから離れられないユーレクのために、よく「外のもの」を持ち帰ってきてくれた。それは道端に咲いていた花であったり、転がっていた石ころであったりだ。ベッドの脇にひっつくように座って、今日あった出来事を熱心に話して聞かせてくれた。

 アイシャからはいつも日なたのにおいがして、それがユーレクには心地がよかった。ユーレクはアイシャと過ごす時間が好きだった。弟という存在が嬉しかった。


 アイシャは手先も器用だった。父から貰い受けたというナイフを使って、よく外で見かけた動物の木彫り人形を作ってくれた。彫り上がったそれらは、ユーレクが寂しくないようにとベッドの傍に並べてくれた。


 両親は二人の息子に優劣をつけたりはしなかった。体の弱いユーレクも、活発なアイシャも、平等に愛した。どちらも神からの大事な授かりものだ。両親はもともと信心深い性格だった。ただ、アイシャよりも病弱なユーレクに心を砕いていたのも事実だろう。


 両親は、何とかしてユーレクを丈夫な体にしたいと願った。アイシャが活発であればあるだけ、その願いは強く、深くなっていった。朝晩のお祈りはけっして欠かさなかった。ユーレクの体が弱いのは自分たちの信仰心が足りないせいだと自らを責めた。これは神が与えたもうた試練なのだ。

 それはやがて強迫観念のように両親を蝕み、追いつめていった。


 二人はただ祈るだけでは飽き足らず、いろいろな種類の薬や祈祷、まじないなどありとあらゆる方法を試すようになった。少しでも効果の期待できそうなものがあれば血相を変えて飛びつく。おそらくなかには、出所の怪しい薬とも呼べない代物や、悪意に満ちた詐欺などが多分に含まれていたことだろう。治安の悪い輩どもにとって、ユーレクの両親は金づるでしかなかった。


 ユーレクもそのことには薄々気がついていた。両親は、騙されている。それでも二人を愚かだとは思わなかった。説得もしなかった。自分のために奔走してくれる両親を失望させるような真似はできない。

 きっとアイシャも同じ気持ちだったのだろう。両親のすることに口出しすることはなかった。兄さんがそれでいいなら、僕は何も言わないよ。そう言って笑った。


 ユーレクはどんなに怪しい薬でも――それがおよそ薬とは思えない代物であっても――拒絶することなくおとなしく飲んだ。その結果、よけいに体調が悪くなろうともかまわなかった。病弱な体はもどかしかったが、それ以上に両親の愛に報いたい一心だった。絶対に死ぬわけにはいかなかった。死ねば、両親の神が否定される。


 だから夜中に喘鳴ぜんめいが治まらず息苦しさに眠れずとも、自分の思うように手足が動かずとも、心が挫けることはなかった。夜中、一人であえいでいると必ずアイシャが来てくれた。アイシャの小さな手が、ユーレクの喘鳴が治まるまでいつまでも背中をさすってくれていたことはよく覚えている。


 薬以外にも、怪しげな祈祷や怪しげなまじないは山ほどあった。ただ座って意味のわからない奇妙な呪文を聞いているだけならばまだよい。一日じゅう、ユーレクを打ち据えた男もいた。


 男は、両親が病弱な息子のためにとにかくありとあらゆる手段を試していることをどこからか聞きつけてやってきた。ユーレクは最初からこの男が厭だった。何かただならぬ目つきをしている。

 しかし男の態度や話がどんなに怪しくとも、もちろん両親は露ほども疑うことをしなかった。あっさりと男を家に招き入れ、あまつさえ病を取り除く方法の詳細は秘事なのだと言われれば平気で男とユーレクを二人きりにした。


 男は部屋の扉を閉めてしっかりと掛け金をかけると、ユーレクに向きなおって服を脱ぐように指示した。ユーレクがためらうと、病が治らなくて両親を失望させてもいいのかと脅す。男は木の棒を取りだして、服を脱いだユーレクの素肌を直接打った。手加減はなかった。打たれた衝撃で床に倒れる。男は這いつくばるユーレクに馬乗りになると、さらにめちゃくちゃに殴りつけた。

 これが体から悪い病を追いだすのだと言っていたが、ユーレクを見下ろす顔にときどき嗜虐的な表情が覗いた。たんに男の欲を満たすためだけの行為だったのだろう。男の仕打ちがいつ終わったのかはわからない。ユーレクは途中で気絶した。目覚めると体じゅうが痣だらけで全身の感覚が鈍い。自分の体ではないようだった。打たれて赤く腫れ上がったところはいつまでも熱を持ち、何日も寝込んだ。


 両親はそれでもただ男に感謝した。ありがとうございます。これできっと悪い病が消え去ります。

 さすがに見かねたアイシャが両親に食ってかかろうとしたが、ユーレクが諫めた。

 でも、兄さん。アイシャは納得のいかない様子を見せたが結局は渋々といった様子でユーレクに従った。


 めしいた男がやってきたのは、それから数か月が経ったころだ。

 視力を失った目は光を映さず全体的に白く濁っている。年齢はわからなかった。ひどく若くも、反対に年老いても見える。

 男は家のなかに上がりこむと、ユーレクの体のなかにある核を解放するのだと頻りと説明した。核は、誰しもが持っている。ただふだんはその力の一割も引きだせていないし、核があることにも気がついていない。男は目が見えないぶんその核を見ることができ、触れることもできるのだという。


 あきらかに胡散臭かったが、これも両親は素直に信じた。男は目を閉じて座ったユーレクの背中をたどり、探り当てたある一点をトンと指で叩いた。それで終わりだった。


 両親は男に大金を支払い、男は一礼して帰っていった。男が帰ったあともユーレクの体に変化はなかった。ただ、棒で打たれるような荒々しいやりかたでなかったことだけが救いだ。


 いったい、ありとあらゆる薬や祈祷やまじないのどれに効果があったのかはわからない。もしかするとそのすべてが交わりあったせいなのかもしれない。


 盲いた男がやってきてから一週間ほどが経った朝だった。目が覚めると、ユーレクは自分の体がとても軽くなっていることに気がついた。

 だるさも熱っぽさもない。喘鳴も起こらない。自分の思いどおりに手足が動く。初めての感覚だった。


「ユーレク。起き上がって平気なの」

 台所へやってきたユーレクを見て、母が驚いた声を上げた。慌てた様子で駆け寄ってくる。

「うん。今日は何だか、体がすごく軽いんだ」

 ユーレクはそう答えて母に笑いかけた。母はユーレクの顔を見てはっと息を呑み、急に視線をさまよわせてそのまま黙りこんだ。ユーレクに伸ばされかけていた手が、おずおずと下ろされる。


 自分では確認することができなかったためわからなかったのだが、そのとき、もともと青みがかっていたはずのユーレクの睛はオパールのような虹色に変化していた。

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