第15話 毒液
ギャリが戻ってきたのはほとんど日も暮れかけたころだった。
宿屋に戻ってからユーレクはまた椅子に座って静かに本を読み進めていたが、ミカは朝に感じた悪い予感が当たるのではないかと気が気でなかった。ギャリのベッドの隅に腰かけ、俯いて指先で執拗にシーツの皺をなぞる。
扉の外から待ち焦がれていた跫音が近づいてきて、はっと顔を上げた。どうやら自分で思っていた以上に慌てていたらしい。ユーレクが本に視線を落としたままくすりと小さく笑うのが横目に映り、ミカは赤面した。
「ミカ。来てたのか」
部屋に入ってきたギャリは、ミカの姿を認めて嬉しそうに声をかけてくる。担いだ麻袋には何かひどく重量のあるものが入っている様子だ。服はあちこち破れ、血と泥で汚れている。また宿屋の店主に見咎められはしなかっただろうか。
「おかえり」ユーレクが読んでいた本を閉じて脇に置いた。
ギャリはユーレクのほうに顔を向け、おう、と返事をすると担いでいた麻袋を二人の前にどかりと置いた。
「ちょうどいい。ミカ、確認してくれないか。これが炭崩で合ってるよな?」
屈みこんで麻袋の口を開く。
恐る恐る覗きこむと、砂色をした大蛇が一匹入っていた。腹の側面に白い線のような模様がある。炭崩だ。この体の色が、砂漠では保護色となって見つけにくいのである。
加えてふだんは砂のなかに潜って身を隠し、獲物が通りかかるのを虎視眈々と待っている。気づかずに至近距離を歩いたり踏みつけたりして、多くが餌食になるのだ。
盛り上がった砂が突然襲いかかってきたように感じるだろう。そうなればもはや手遅れだ。気がついたときには炭崩の太い毒牙が皮膚を突き破って深々と肉に食いこんでいる。数秒と経たずに、咬まれた箇所から肉が爛れて腐っていく。
麻袋のなかの炭崩は、すでに息の根はないようだ。
「間違いないよ」
ミカは頷き、緊張で小さく唾を飲んだ。死んでいるとわかっていても怖気立つ。
胴体はギャリの腕よりも太い。体長はミカよりもありそうだ。毒牙の餌食にならずとも、この体で絞められたら窒息死するかもしれない。
「したぞ、窒息死」何でもないことのようにギャリが言う。「足をとられて転んでさ。そのあいだにのしかかられたんだ。気づいたら顔のまわりにそいつの胴体が巻きついてた。剥がそうとしてもびくともしなくて参ったよ。そのうちに意識が朦朧としてきて。たぶん首の骨も折れた」
炭崩との奮闘記を語りながら、ギャリはせっせと床一面に布を敷きつめていく。麻袋から大蛇を取りだしてその上に転がした。
顔を上げてユーレクを見る。
「ユーレク。お前のナイフを貸してくれ。サーベルよりもそっちのほうが解体しやすい」
ユーレクは顔を顰めてあからさまに厭そうなそぶりを見せたが、結局はナイフをギャリに差しだした。ギャリは受け取ったナイフを使って炭崩を解体していった。
頭部を切り落とし、口を開かせる。毒牙に続く毒腺から溢れる毒液をゴブレットに溜めた。
「ついでに血と肉も少し試そう」
頭部の切断面から肉を削ぎ、流れる血をゴブレットで受け止めた。部屋にやや臭気が籠もる。敷きつめた布のおかげで床を汚すことはないが、においはしばらく室内に染みつきそうだ。宿屋の店主への言い訳は大丈夫だろうか。
ギャリはまず、肉から試した。削いだばかりの生肉を口に入れる。なかなか噛み切れないようで、険しい表情で延々と咀嚼していた。しまいにあきらめて丸呑みする。肉には毒がないのだから当然死ぬようなことはない。死ぬとしたら、喉に詰まらせての窒息死だろう。しかしギャリは、今日すでに窒息死は経験済みだ。これ以上は遠慮願いたいだろう。
血も同様だった。ゴブレットの中身をひと息で飲み干したギャリは、まずそうに顔を顰めただけだった。
ここまでは前座だ。
それからいよいよ毒液の入ったゴブレットに手を伸ばした。血を飲んだときとは違い、ほんの少しだけを口にした。ゴブレットをテーブルに置く。味わうように毒液を舌の上で転がし、嚥下した。
しかしどれだけ待ってみてもギャリが苦しみだすことはなく、何の変化も起こらない。
「……効かない、のかな」
ミカはギャリが死なないことを喜んでよいものか、効果のないものを紹介してしまったことを謝るべきなのか判断がつかなかった。
「経口摂取だからだろう」黙って様子を見ていたユーレクが言った。
「……どういうこと、」
「蛇の毒は咬傷からの注入と違って、飲んでもほとんど毒性が発揮されないんだ。胃で分解されてしまうからな。口のなかに傷でもあれば別だろうが」
「物知りなんだね、ユーレク」
「何百年生きていると思ってるんだ」
感心したようにミカが言うと、そう返答がある。
「なるほどね、」
ギャリはナイフを咥えると、ためらいなく横に引いて口内を傷つけた。ぱっと血飛沫が飛ぶ。ゴブレットを手に取り、その傷が塞がる前にもう一度毒液を呷る。
今度は、すぐに効果が出た。ひくっとギャリの喉が引き攣り、顔が青ずんでくる。半開きになった口の端から涎が一筋垂れた。目が霞むのか、重たい瞬きを繰り返す。ぐらりと体が揺れたかと思うと、そのまま床に
「ギャリ!」
鋭い声を上げて、ミカはギャリに駆け寄った。四肢からだらんと力が失せ、瞳孔が開いている。死んでいた。
「ギャリ……ギャリ……、」
何度も名前を呼ぶ。まるで反応がない。このまま目を覚まさないのかもしれないと考え、背筋が冷えた。
どれくらい経っただろうか。掴んでいたギャリの腕に力が籠もる。ゆっくりと息を吐く音が聞こえた。呼吸が戻ってきている。
「どうだ、死んだか?」飄々とした声で訊ねられる。虹色の睛がまっすぐにミカを見据えている。
「……死んでたけど、生き返った」感情が迷子になったまま、ミカは答えた。
「おれのナイフを雑に扱うな」
ユーレクが不機嫌そうに言って、ギャリからナイフを奪い返した。それからぼろぼろになったギャリの服をあきれた様子で一瞥した。
「ギャリ。だいたいお前、炭崩を捕獲するまでに何度か咬まれているだろう」
指摘されたギャリの視線がとたんにさまよう。どうやら正鵠を射ているらしい。
「何回咬まれたんだ? 正直に言え」
「……三回、」
ユーレクは額に手を当てて、大きな溜息をついた。「それで生還しているんだ。結果はお察しだろう」
ギャリは叱られた子供のように縮こまっている。
「もしかするとギャリには被虐趣味があるんじゃないのか、」
「違う。ない」
「自分で気づいていないだけかもしれない」
「そんなことはない」
「ギャリ。おれは別に、それが悪いことだとは言っていない」
「だから違うって」
二人の応酬を聞いていたミカは、途中で耐えられなくなって噴きだした。二人が怪訝そうにミカを見る。
「よかった」目尻に浮かんだ涙を指でこすりながら呟く。
「何がだ?」
ギャリに訊ねられるが、ミカは笑うだけで答えなかった。ギャリは不思議そうにミカを見ている。
死にたがっているギャリには悪いが、ギャリが死ななくてよかったとミカはしみじみ思った。
「それにしても、今回もだめだったかあ」
がしがしと髪の毛を掻きながらギャリがぼやいた。
「残った肉は干し肉にでもするかな。明日は大仕事だな」
「おれは手伝わないからな」
読み進めたい本のノルマがあるからな、とユーレクは続けた。
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