第23話 都
お守りのナイフのおかげか、昨晩は悪夢に
アイシャに感謝してナイフを元のとおり懐にしまうと、火の準備をして、昨日の残りの鶏肉を朝食にするために焼いていく。
今日はどれくらい移動距離を稼げるだろうか――。そんなことを考えながら焼き上がった固い肉を黙々と頬張っていたところで、目の前に信じられないものを見つけてユーレクの思考は停止した。肉を手に持ったまましばし茫然となる。起床して活動をはじめてからそこそこの時間が経つと思うが、まだ寝惚けているのだろうか。あるいは、これは蜃気楼というやつなのかもしれない。
そうでなければ、今、眼前に聳え立つ町の説明がつかない。
食べかけていた肉をゆっくりと嚥下する。ごくりと喉が鳴った。
昨日眠る前には、たしかにあんな場所にあんな町はなかったはずだ。それははっきりと断言できる。いくら暑さと疲労で判断が鈍っていたのだとしても、あれほど大きな町が目の前に広がっていたならばさすがに見落とすことはあり得ない。
まさか眠っているあいだに自分が砂漠を移動したのかとも考えたが、小さいころから今までのあいだユーレクに夢遊病を思わせる症状はなかったはずだ。両親からも聞いたことがない。そもそも幼いころは病弱でベッドから離れられなかった。それでは、水上のように砂上を流された可能性はどうだろうか。……あるいは、町のほうがこちらへ移動してきたのか。
突如出現した目の前の町の正体がわからずに驚くばかりだったが、とにかく、ありがたいことはたしかだ。これでようやく路銀が意味を持ち、必要なものを買い揃えることができる。ユーレクは手早く朝食を済ませると、荷物をまとめて吸い寄せられるように眼前に聳える町へと近づいていった。
もちろん蜃気楼の可能性もまだ捨てきれないでいたが、視界から逃げることなく歩いたぶんだけ町は近づき、やがて無事に入り口へとたどり着いた。踏んだ地面が何だかぶよぶよと柔らかく、足裏から弾力のあるものが跳ね返ってくるような奇妙な感覚がする。油断すると足をとられそうだ。
足元に気をつけながら町のなかへと踏み入った。しばらく民家が連なり、やがて開けた中央に広場があった。広場の地面には石畳が敷きつめられている。さらに中心に水場があり、きれいな水が湧きでていた。
広場のぐるりを囲うように露店が並んでいる。
露店はたくさんの人で賑わっていた。いずれも褐色の肌に黒い髪をしたものたちが行き交い、楽しそうに談笑している。ユーレクの姿に気がついた何人かが、すれ違いざまやや無遠慮に怪訝そうな視線を投げた。
「……あの、」
ユーレクはそれらの視線をやり過ごし、手近な露店のものに声をかけた。ちょうど客が一人もおらず暇そうにしている装飾品売りの男がいた。声をかけられた男が顔を上げる。
「このあたりの宿屋はどこですか」
まずは部屋でゆっくりと体を休めたかった。必要なものを揃えに出るのはそれからだ。
ところが装飾品売りの男は、ぽかんとした表情でユーレクを見つめたままいっこうに質問に答えるそぶりがない。いつの間にか往来を歩いていた人たちまでもがぱったりと楽しげなお喋りをやめて立ち止まり、固唾を呑んで二人のやりとりを見守っている。
ユーレクはその反応におおいに戸惑った。自分はただの旅人の一人にすぎない。旅人がそんなに物珍しいものなのだろうか。たしかに褐色の肌と黒い髪を持つ彼らのなかに混じると、白い肌と琥珀色の髪を持つユーレクは目立つだろう。不死者の証である虹色の睛もある。だがそれにしても、少々過剰だ。
もしかすると言葉が通じていないのかもしれないと思いつく。いちおう、このあたりの言語はひととおり学習したつもりだったし、さっき往来を歩くものたちが交わすお喋りの内容も理解はできた。それでも通じないのだとしたら、発音がどこか致命的に間違っているのかもしれない。
「客人か?」
そのとき、道の向こうから声が上がった。その声に反応して、ユーレクと装飾品売りの男を囲うようにできていた人垣が割れる。そのあいだを若い男が一人、悠々とした様子で歩みでてきた。
やはり褐色の肌に黒い髪をしている。すらりと背が高い。蜜を垂らしたような月色の睛がきれいだった。宝石のちりばめられた金色の首飾りを下げていて、耳にはカフスが嵌められている。着ている服も上等そうだ。
「王様、ごきげんよう」
「ギャリ様」
集まっていた民衆が口々にそう呼んで、嬉しそうに長身の若い男に群がった。ギャリと呼ばれた男は、軽く手を挙げてそれを制す。
「あー、悪い。ちょっと通してくれ」
ユーレクに視線を戻すとゆっくりと近寄ってくる。どうやら彼がここを治める最高権力者らしい。それにしてもそんな高貴な人物が、なぜこんなふうに町中をぶらぶらとしているのか。見たところ従者の一人もつけていない。ひどく珍しい気がした。
ただとにかく、失礼があってはならない。
ユーレクはギャリの前に立つと、恭しくお辞儀をした。
「こんにちは。ギャリ王様」
その様子を見たギャリが、あからさまに厭そうに顔を顰めた。
「よしてくれ。ギャリでいい。お前はここの人間じゃないんだし、俺に対する敬意なんて必要ない。よそよそしい言葉遣いも抜きだ。……こういう堅苦しいのは、本当は向いていないんだ。便宜上、ここの連中には王様だなんて呼ばれちゃいるが、そんなものはたんなる符号みたいなもんだ」
ギャリはつい最近身罷った先王のあとを継いで即位したばかりなのだと説明した。
「今まで好き勝手やってきてたのに、急に王様だ何だと担ぎあげられて苦労してるんだ」
「そうそう。ギャリ様はお稽古事でも何でもどうにかしてサボるのが好きでしたからね」
「武術もからっきしですしね」
「うるさいぞ、」
民衆の誰かから揶揄されて、ギャリはふて腐れたようにそう返した。不敬だ何だと怒った様子ではない。民衆はギャリに軽口を叩けるような間柄なのだ。ずいぶんと慕われている。
「ここは平和な都だからな。武術なんて習う必要がなかったんだ」ユーレクに向きなおる。「それよりも、客人に失礼をしたな。ここにはあんまりよそから人がやってくることがないものだから、みんな珍しかったんだろう。……俺もまさか近くに人がいるなんて思ってもいなかったが。ようこそ。改めて、歓迎するよ」
名前を訊ねられて答える。ギャリももう一度自分の名前を名乗り、ユーレクに右手を差しだした。ユーレクはその手を握った。
「それじゃあ、ユーレク。今からお前はここの客人で俺の大事な友人だ。ああ、宿屋を探しているんだったな。それなら、右目の方向にある」
そう言って広場のある一点を指差した。右目とは何だろうかと思いつつも、指差された方角でだいたいの場所はわかったので特に問いただすこともせず礼を言う。この場を立ち去る口実を探した。旅人風情を王様直々に歓待してくれるのはありがたいが、とにかく早いところ宿屋で体を休めたかった。だが、どの程度の無礼であれば赦されるのかを計りかねていた。
するとギャリが何かに気がついたように、突然ずいっとユーレクに顔を近づけてくる。至近距離でまじまじと何かを観察していた。
「……何か、」
驚いて一歩下がった。怪訝に思って訊ねると、ギャリは白い歯を見せて屈託なく笑った。
「きれいな色の睛をしているな」
「ああ……、ありがとう、」
否定するのもおかしな気がしてとりあえず礼を言う。この睛の色は不死者の証なのだとは、さすがに言えなかった。
「どこから来たんだ。北のほうか?」
「ああ。出身はそうだ」
「ふうん。向こうのやつらは、みんなユーレクみたいに陽に透ける薄い髪色やきれいな虹色の睛をしているのか、」
「そんなこともない。髪の色も目の色も、さまざまだよ。虹色の睛は……向こうにもあまり、いないだろうけど、」
ユーレクだって、もともとの睛の色はパールブルーだった。
「じゃあ、ユーレクが特別なんだな」
特別と言えば、そうなのだろう。ただそれが不死者の証である以上は、あまり喜べるものでもない。だがどうしたって事情を説明することはできないのだからもどかしい。
「何だかユーレクに興味が湧いてきた。もっといろいろと話がしてみたいな、」子供のような口ぶりでギャリが言う。それから何かとてもいいことを思いついたというように月色の睛を輝かせた。「そうだ。今夜、俺の宮殿に来いよ。ユーレクは、今夜はここの宿屋に泊まるんだろう。なら時間はたっぷりあるよな。俺は今からちょっと用事があって、体が空くのが夜になるんだ。だから夜に来てほしい。時間は何時でもかまわない。宮殿は頭の方角にある。じゃあ、待ってる」
言いたいことだけ言うと、手を振ってさっさとどこかへ行ってしまう。ユーレクはギャリの誘いに対する返事もできないまま、どんどんと小さくなるその後ろ姿を戸惑いつつも見送った。……断ったら、不敬罪になるのだろうか。
「……あれは、社交辞令ですよね?」
「いやあ、本気でしょう」
思わず傍にいた男に訊ねると、あっけらかんとした調子で返される。
「逆に行かないときっと不機嫌になりますよ。お土産に酒でも持っていくといいですよ。ギャリ様は酒がお好きですから。ちょうどうちにいい酒があるんです。ぜひ、酒盛り用に買っていってください。勉強しておきます」
話しかけたのはどうやら酒場の店主だったらしい。ちゃっかり営業される。
ユーレクは夜中の安眠を諦めた。
「ところで、頭の方角って何ですか、」
訊ねると、酒場の店主はユーレクを広場の水場の前に案内した。敷かれた石畳の上下左右、斜め方向にそれぞれ何かの絵柄が刻まれている。
「これが頭、これが右目、こいつは右鰭……」
楕円の上半分のようなもの、細い線で描かれた円のなかに黒丸が描きこまれたもの、三日月をさらに弓形にひしゃげさせたようなかたちのものを順々に指差していく。
「ここでは方角を表すのにこの石畳に刻まれた絵柄を用いているんですよ」
なるほど、言われてみればたしかに宿屋は右目の絵柄が描かれた方角にある。それではギャリの住む宮殿に行くには、楕円の上半分のようなものが描かれた方角に進めばいいのだろう。これは何かの生物をモチーフにしているのだろうか。
ユーレクは酒場の店主に礼を言い、それから薦められた酒を一本購入した。
夜になると、ユーレクは買った酒を携えてギャリの住む宮殿を訪れた。民家が途絶えて途中から開けた土地になり、だだっ広い庭が続く。その庭の先に少し豪華ななりをした建物があった。あれがおそらく宮殿だろう。
庭には囲いのようなものはいっさいなく、誰でもそのまま入れるようになっている。庭というよりは野っ原と形容したほうが正しいかもしれない。
「おうい、ユーレク。こっちこっち」
どうやって宮殿のなかに入ったものかわからず途方に暮れていると、上のほうからギャリの声がする。声のしたほうに首を巡らせると庭に面した窓辺のひとつからギャリが顔を出して手招きをしていた。
「窓の外に縄梯子をかけてあるから、そこから登ってきてくれ」
「……なぜそんなところに縄梯子が、」
「俺が自分でかけたんだ。玄関から出入りするのが面倒なとき、窓から梯子で出入りしてる」
ユーレクは言われたとおりに梯子を登り、窓辺から部屋のなかへと入った。部屋には大ぶりのベッドや椅子が置かれている。
「警備がガバガバじゃないか……」
誰に見咎められることもなくあっさりと部屋のなかに侵入できてしまったことに一抹の不安を覚える。
窓辺にかけた梯子を使って、よからぬ考えを持つものに侵入されたらいったいどうするつもりでいるのだろう。
「平気だ。ここは、平和な都だからな」
ギャリはそう言って、それからユーレクが手に持っている酒に並々ならぬ興味を示した。どうやら酒場の店主の助言どおりに酒を持ってきて正解だったようだ。
二人は窓辺に腰かけて夜風に当たりながら、月を肴に酒を楽しんだ。昼間言っていた用事とは、即位記念の肖像画を描くためだったらしい。王に即位したら肖像画を描いて代々宮殿に飾るのが慣わしとなっているのだそうだ。
「宝冠やら錫杖やら持たされてさ。柄じゃないっていうのにな、」
そう言ってぼやくギャリを見つめ、ユーレクはくつくつと笑った。合間に酒を飲む。飾らない態度のギャリが好ましかった。
それから夜になるとユーレクは酒を持ってギャリのもとを訪れ、窓辺に座って二人で酒を飲み交わすのが習慣になった。
「ユーレク。俺はお前が気に入ったよ。お前ももしここが気に入ったなら、いつまでだっていていいんだ」
「ありがとう、ギャリ」
答えて、ユーレクは酒を呷る。町はとても居心地がよく、ギャリも民衆もみなよくしてくれて、ユーレクも本当に気に入っていた。できればギャリの言うようにいつまででもここに住んでいたい。だが、それは不死者であるユーレクにはしょせん叶わない願いなのだ。
三年……頑張れば、五年くらいはいられるだろうか。
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