第10話 逃亡

 さっきから、廊下がずっと騒がしい。


 屋敷内で何か異常事態が発生していることは間違いないだろう。侵入者か? それとも、今巷を騒がせているあの噂話の幽霊だろうか。


 ガンダラはベッドの中央に座り、部屋の扉を血走った目で一心に睨みつけていた。先ほどから全身の震えが止まらず、合わない歯の根がガチガチと鳴っていた。


 いつものように豪奢な食事に舌鼓を打ちながら上等の酒を楽しみ、残飯を家畜小屋のダラたちにやって心地よく寝入ったのは数時間前のことだ。それから妙に騒がしい廊下の音を聞きつけて目が覚めた。


 侵入者の線が濃厚だろうか。つい先日、宝物庫に泥棒が入ったばかりだ。

 宝物庫には厳重に鍵がかけてあったから、まさかあれを破られるとは思ってもいなかった。屋敷の玄関にしてみてもそうだ。物音ひとつ立てることなく侵入されたせいで発見が遅れた。侵入者は相当の手練れだろうと思われた。

 ただあの宝物庫はフェイクで、置いてある宝物はすべて目くらましのイミテーションである。盗まれたところでさほどの痛手ではない。念を入れて仕掛けておいた宝箱の罠も実によい仕事をしてくれた。残念ながら賊を仕留めることは叶わなかったものの、怪我を負わせることはできた。宝物庫内には血痕がいくつか点々と残されていた。


 しかし、金で雇ったごろつきにあの夜以降に怪我をしているものがいないかを探らせたがめぼしい成果は得られなかった。

 さすがに懲りてもうとっくにどこか遠くへ逃げだしたものとばかり思っていたのだが、逃した宝物が惜しくて再び舞い戻ってきたのかもしれない。


 もしも今夜の騒ぎの元があのときの賊であるならば、今度こそアジルーが仕留めてくれるだろう。用心棒のアジルーには、ガンダラのすぐ向かいの部屋を与えている。


 アジルーはもともとこのうえなく荒事が好きな男だ。宝物庫の侵入者を取り逃がしたこともひどく悔しがっていた。罪人は一人残らず制裁しなければならないのだと言っていたが、本音は相手に後ろ暗いところがあればあるだけ、それを理由に容赦なくいたぶれるからだろう。あの男は、それがたまらなく楽しいのだ。以前、ガンダラに歯向かった相手を笑顔で半死半生にしたこともある。

 それに、あの男には目玉が飛びでるほどの大金を払っているのだ。こういうときにこそしっかりと仕事をしてくれなければ困る。


 いっぽうで不安要素がいつまでも消えないのは、もしもこれが首なし死体の幽霊だった場合を考えてのことだ。生身の侵入者と得体の知れない幽霊とでは、まるきり事情が異なる。さしものアジルーも、幽霊相手には苦戦するかもしれない。万が一にもこの部屋までたどり着かれたら、そのとき自分はいったいどうすればよいのか……。金や力で与することのできない存在はひどく厄介だ。


 ぶるり、と全身の震えが激しくなる。

 ガンダラは非現実的なものはいっさい受け入れたくないと思っている。今までさほど信じてもいなかったし、そんなものは子供騙しにすぎないと感じていた。しかし、巷で噂の幽霊がかつてガンダラに処刑された民衆なのではないかと囁かれていることも承知している。それをくだらないと一蹴できるほどの豪胆さは、ガンダラにはなかった。


 そのとき、部屋の扉がガチャガチャと不穏な金属音を響かせた。


「ひいッ!」

 思わず情けない声が出る。


 どうやら扉の錠前に何かを差しこんで回そうとしているようだ。誰かが外側からこの部屋の扉を開けようとしている――。

 音はだんだんと荒く、大きくなっていった。音からは何となく焦燥も窺える。部屋はしっかりと施錠をしてあるから、思うように開かなくて苛立っているのだろう。

 であれば、やはり侵入者は生身の人間だろうか。実体のない幽霊であれば、扉などたやすく通り抜けてなかに入ってきそうなものだ。


 ふと、耳障りな金属音がやんだ。あたりはとたんに水を打ったように静まり返る。そのまま何も起こらない。


 幾ばくの時間が過ぎたのか。

 ガンダラは固唾を呑んで食い入るように扉の様子を窺っていた。この場で自分の心臓の音がいちばんうるさいくらいだ。音がやんだからとはいえ、けっして胡乱な何かがいなくなったわけではない。扉の外には自分以外のものの気配がまだ確実に感じられた。扉一枚を隔てて、はいまだそこにいるのだ。


 ガンダラはさらに息をひそめて扉を睨み続けた。正体がわからないうちは迂闊に行動を起こさないほうが賢明だ。それに、待っていればいずれアジルーがこの場にやってくるかもしれない。そうすればガンダラは窮地から救われるはずだ。

 そもそも、あいつはこんなときにいったい何をやっているんだ? 主人の危機だってのにぐずぐずしやがって。さっさと駆けつけろ。誰が大金を払って雇ってやっていると思ってるんだ。ちっ、と舌を打って悪態をつく。


 そのまま膠着状態が続くかに思われたが、突如、それは破られた。外側から扉に激しく何かのぶつかる音が響き渡る。ガンダラはベッドの上で思わず小さく飛び上がった。

 音は断続的に何度も続き、扉が悲鳴を上げて大きく軋んだ。

 何度目かにどんッ、というひときわ大きな音が響いたかと思うと、衝撃で扉がたわみ、錠前が弾けた。破壊された扉がゆっくりと開いていく。


 隙間から何かが入ってくる。

 ぬう、と白い顔が覗いた。

 視線が合う。


 オパールのように神秘的な虹色の虹彩をしている。この地方では珍しい琥珀色の髪。まるで知らない顔だった。少なくとも、ガンダラに恨みを募らせて化けて出た幽霊ではあり得ない。たんなる賊だ。


 そう思った瞬間、ガンダラの頬の肉が引き攣った。信じられない思いで目の前の侵入者を見つめる。扉の隙間からこちらを覗いていたその顔が、ころりと床に転がったのだ。首から下がない。生首だった。

 体はどこへ、と思ったちょうどそのとき、はゆっくりと全身を現した。今度は、首から上がなかった。本来頭のあるべき場所は途中ですっぱりと切断されていて、切断面からは赤黒い血肉と骨が覗いている。

 首なし死体は床に転がった頭部を拾いあげると、大事そうにその胸に抱えた。生首と視線が合う。それはガンダラを見据えてにやりと嗤った。


 幽霊……いや。これは、ゾンビだろうか。


「わあぁああ!」

 ガンダラは半狂乱になって、ベッドの脇に置いてあった短銃を掴むとに向かって発砲した。護身用とコレクションを兼ねて取り寄せた舶来品だった。銃身には精巧な彫りが施されており、美術品として見ても美しい。

 目の前の得体の知れない存在には、少なくとも実体がある。それならば弾は当たるはずだ。


 闇雲に撃ったわりに、弾丸は首なし死体の胸に命中した。心臓にめり込む。衝撃で首なし死体の体が揺れ、やや後方に仰け反った。しかしすぐに踏みとどまって体勢を立て直すと、何ごともなかったかのように一歩ずつガンダラの傍へと近寄ってきた。胸の傷口に指を突っ込み、めり込んだ弾丸をほじくりだす。床に投げ捨てた。

 ガンダラは震える指を押さえつけ、銃口に次の弾丸を詰めた。何とか狙いを定めて再び引き金を引く。しかし弾丸が発射されることはなかった。弾詰まりだ。


 首なし死体がベッドのすぐ傍まで迫ってくる。ガンダラは手にしていた短銃を生首めがけて投げつけると、一瞬の隙をついてベッドから飛び降り、そのまま廊下にまろびでた。


 廊下は不気味なほどに静まり返っていた。アジルーはどうしたのだろう。

 目を凝らした廊下の向こうから、何者かがこちらへ向かってやってくるのが見えた。背の高い男だった。アジルーではない。もっと細身だ。

 さらに距離が近づくにつれ、人物の詳細がはっきりとしてくる。衣服の胸のあたりがべったりと血に濡れていた。褐色の肌に黒々とした髪。それから睛は虹色だ。

「ど、どうしてここに……、」

 ガンダラの目が信じられないものを見たように大きく見開かれる。震える声でそう独りごち、ぺたりとその場に尻餅をついた。腰が抜けたのだ。

 男はガンダラの傍までやってくると、すぐ目の前で立ち止まった。そのまま無言でガンダラを見下ろしている。

「あ、あう……」

 ガンダラは無様に廊下を這い、男から逃れた。何とか階段までたどり着くと転がるように降りていく。そのあいだ、男はじっとガンダラの様子を見ているだけだった。追ってくるそぶりはない。

 ガンダラはそのまま玄関を出ると、何度も足を縺れさせて転びそうになりながらも必死に裏手の家畜小屋へと向かった。ゼイゼイと息が上がっている。

 家畜小屋では目を覚ましたらしいダラが騒がしく鳴きたてていた。そのうちの一頭に跨がって胴を蹴る。ダラは驚いて一声鳴くと、ガンダラを背に乗せて走りだした。半分ずり落ちそうになりながらも必死にその首にしがみつき、とにかく町の外に向かって駆ける。


 そうしてガンダラは、姿を消した。


「逃げたのか」

 ガンダラの姿を見送ったギャリとミカに、部屋から出てきたユーレクが声をかける。首はまだ胸の前に抱えたままだ。


「そうみたいだ」ギャリは答えてから、今しがたユーレクが出てきた扉をちらりと見遣り、肩を竦めて苦笑した。「これまたずいぶんと、派手にやったな」


 扉はあちこち派手に破壊され、錠前はすっかり弾け飛んでいる。これではおよそ幽霊の仕業には見えない。

「借りた道具でなかなか鍵が開かなかったんだ。……ミカみたいにやるのは難しい、」

 ユーレクは少し気まずそうに視線を逸らした。

 どうやら鍵が開かないことに焦れて実力行使に出たようだ。意外に武闘派であることにミカは驚く。


「結果的には作戦どおりになったんだから、いいだろう」

「そういうことにしておいてやろうか」ギャリは笑う。

「それよりも解せないのは、ガンダラだ。何だかおれよりもギャリの姿に怯えて逃げていったように思うんだが」

「ああ、あれ」ギャリががしがしと頭を掻く。「何だったんだろうな。俺も不思議だったんだ。俺の首はちゃんと繋がってるんだがなあ」

 ガンダラはギャリを知っているような態度だったが、ギャリに思い当たる節はなさそうだ。それならば、ガンダラが一方的にギャリを見かけたのだろうか。そうだとしても町中にガンダラが一人やってくるとも思えないし、あそこまで驚く理由もわからない。

 ガンダラに対しては、ミカもおおいに不服に思うところがあった。ずっとギャリと一緒にいたというのに、ガンダラの目にはミカの姿は少しも映っていない様子だった。ギャリにばかり目を奪われていた。


「……渾身の演技だったんだがな、」

 ユーレクはまだ不満げにそうぼやき、それから気がついたように抱えていた生首を首の切断面に載せた。傷口は瞬く間に塞がって、継ぎ目も残らない。ユーレクの姿がすっかり元どおりになって、ミカはようやく安堵した。

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