第26話 逃避行
「伸之介。鉛玉をぶち込むのは勘弁してくれよ」
駕籠の中から聞きなれた声がすると、駕籠から垂れ下がった畳表をはねのけて元長が出てくる。
「兄上!」
伸之介の面上に喜色が溢れた。
ぱっと馬から降りると駆け寄って元長に飛びつく。
「無事だったのですね? まあ、あの程度の相手を倒すなど造作もないと思ってましたけど」
伸之介の笑顔を駕籠かきは眩しそうに見ていた。
先ほどの殺気を照射していたときとは比べものにならない柔らかな顔をしている。
「伸之介も良くやったな。そうか。あの男が下手人か。確かに人相書きに似ているな」
元長は慎之介の頭をくしゃくしゃっとした。
駕籠かきの口から言葉が漏れる。
「吉祥庵先生の春画みてえだ」
稚児専用の揚屋があるほどなので、当然その二次元絵のニーズもあった。
吉祥庵の名で活動する絵師は、貴種とのあれこれの絵で今売れっ子である。
幸いにしてこの呟きは伸之介の耳には届いていなかった。
もし聞こえていたら、闘いで気が立っているだけに惨劇が起きたかもしれない。
密かに鼻息を荒くしている駕籠かきの存在など知らずに、伸之介は先ほどからのことを元長に説明する。
「なるほどな」
「それでどうしましょうか?」
ここまでは敵の行動に対してリアクションをしてきただけで伸之介にはこの先どう行動すべきかの案はなかった。
せいぜい体力の続く限り敵を斬って斬って斬りまくり京まで戻るというぐらいである。
まったくもって男の子らしい単純明快なものだった。
伸之介1人なら何とかなってしまうかもしれないが、手負いの甚内を連れてでは難しい。
元長と再会したのを幸いと面倒な考え事は任せてしまうつもりである。
「多気に向かうというのは論外だな。また狙撃されるだろうし、蜂矢藩領に入ったら問題しか起きないだろう。私のこの格好を見ただけで喧嘩を売られそうだ。かといって今井に戻れば敵が待ち受けているのも必定」
「それでどうします?」
屈託なく尋ねる伸之介に元長は苦笑した。
「俺に判断を丸投げするところなど、悪いところが伴左衛門に似てきたな」
伸之介はしゅんとする。
それを見て元長は明るい笑い声をあげた。
「でも、そこで反省するだけ可愛げがある。それでだ、可愛げのない愚弟には少々長く辛抱してもらうことになるが、俺に案がある」
元長は少し今井方面に引き返すことを提案する。
「伸之介。脚は丈夫だな?」
「はい、もちろんです」
元長は伸之介に馬から降りるように言い、代わりに恐縮することしきりの甚内を乗せた。
「もういいぞ」
駕籠かきたちに言い捨てて今井方面に早足で歩き始める。
先ほど駕籠に進路を塞がれた場所を通り過ぎ、集落に入ると細い路地を右に折れた。
しばらく進んだところで元長は口を開く。
「もう、話をしてもいいだろう。この杣道は尾根伝いに名張に通じている。名張に行くなら昨夜宿を取った宇陀からもっといい道があるので平素は地元民しか使わないんだがな」
「よく知ってますね」
「まあな。名張は天領だ。代官もいるし人手も出してもらえるだろう。それにちゃんとした医者もいる」
元長は馬上で少し顔色が悪くなってきた甚内を見上げた。
それを見て伸之介は申し訳なさそうな顔をする。
「伸之介、どうした? 1人だったのだから無傷で保護できなくても仕方ない。恥じることはないぞ」
「あー、兄上。甚内さんを撃ったのは僕なんだよね」
先ほど説明したときには詳細を省いたので、この部分を元長に話していなかった。
改めて甚内に追いついたときのことを述べる。
それを聞いて元長は伸之介を褒めた。
「悪い判断ではないと思うぞ。そりゃ監視役の2人も虚を突かれただろう。短筒1発ではなかなか致命傷にはならんからな。まあ、痛いは痛いが」
甚内は弱々しく笑みを浮かべながら肯く。
伸之介の顔が曇ったので慌てて言葉を添えた。
「あの状況じゃ仕方がなかったと思いますよ、本当に。気になさらないでください」
「そうだな。よく当てたもんだ。初めてでなかなか命中するもんじゃないぞ」
褒められて頬が緩みそうになった伸之介は代わりに元長に質問する。
「兄上は駕籠に向かって撃ってましたね。あれはどこに当たったんですか?」
「ああ、あれか。中に潜んでいた奴の短筒を弾き飛ばしただけだ。中の様子が分からなかったからな」
「え? そんなに精密に狙えるものなのですか? 私は胴の真ん中を狙って肩の付け根に当たったんですけど」
「初めてならそんなもんだろう。俺は射撃は得意でな。その分、やっとうの方は伴左衛門にも負ける。で、駕籠から出てきた相手が刀を抜いたので2人を撃ち、残りの1人は怖気づいていたところを斬った」
「そんなに短筒を持ってたんですか?」
「俺の使っているのは最新式の連発なんだよ。2発弾が込められるのさ」
上り下りの激しい尾根道だったが、3人は日暮れ前には名張に到着した。
代官所で事情を話し、甚内の治療と護送を頼む。
翌日、馬を1頭借り受けると元長と伸之介は伴左衛門を迎えに宇陀へと向かった。
とりあえず騒ぎのあった宿へと駒を進める。
そこへ宿の主があたふたと現れて2人に泣きついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます