第7話 石川屋

 鴨川を越えた先の大きな建物の前で久太郎は足を止める。

 石川屋という文字が墨痕淋漓と踊る大きな提灯が二張り暖簾の左右に掲げられいた。

 久太郎は手にしていた提灯の火を吹き消すと折りたたむ。


「ここばなんか?」

 訝しむ伸之介の背中を嬉し気な声の伴左衛門が押した。

「まあまあ、入れば分かります」

 中に入ると玄関先では草履を脱ぐようになっている。

 小女がやってきてたらいに張った湯で足を洗い、雑巾で水気を拭ってくれた。

 

 板場に上がると右手の戸を開けて久太郎が中へ入っていく。

 中に入ると番台に座った男性が立ち上がり、丁寧に久太郎と伴左衛門に頭を下げた。

「お役目ご苦労にございます」


 すぐに藤製の籠を持った下男がやってきて、久太郎と伴左衛門はそこへ差料や銭の入っていると思われる巾着を預ける。

「大切なものはこれに預けることになっているんだ。伸之介さんもどうぞ」

 促されて伸之介も外した佩刀と行李を籠に入れた。

 さらに奥の板戸を開けて別の部屋に移動した。

 伸之介はなんとなく今までいた部屋と比べると湿度と温度があがったのを感じる。

 

 先ほど刀を預けたのと似たような籠が衣桁と一緒に並ぶところに向かうと久太郎と伴左衛門は狩衣を脱ぎ始めた。

「さあ、伸之介さんも服を脱ぎなさい。風呂に入って旅塵を落すんだ。検非違使を目指すなら身ぎれいにしなくてはならないよ。高位の方にお目にかかることもあるからね」


 そう言いながら伴左衛門は既に狩衣を衣桁にかけている。

 袴も白小袖も脱ぐと下帯も解き、籠の中から湯褌を取り上げて締めた。

 部屋の隅にある行燈の淡い光の中に浅黒い久太郎の頑健な裸身と、練り絹のように白い伴左衛門の引き締まった裸身が浮かび上がる。

 伸之介も慌てて衣服を脱ぎ、湯褌を着用した。


 手ぬぐいと竹べらを持つ2人に合わせて手に取ると久太郎が扉を開ける。

 洗い場を抜けてさらにその奥にある低い扉を引くとむうっとした空気が流れ出した。

 2人に続いて伸之介も浴室へと入る。


 天井が低い空間は蝋燭が隅に置いてあるだけで薄暗かった。

 熱気が籠っていてたちまちのうちに3人の体には汗が噴き出てくる。

 下には茣蓙が敷いてあり、3人は少しずつ間隔を開けて胡坐をかいた。

 伸之介は汗が目に入るのを手拭いで拭う。


 落ち着き払った伴左衛門と久太郎の所作を真似ているが伸之介は風呂に入るのは初めてであった。

 たらいに水を張って行水することはあるが、それも夏場だけのことである。

 窯風呂は作るのも維持運営するのにも手間暇がかかるため、大都市にしか存在しない。

 しかも近年は木枠で囲った中に湯を張る湯屋が増えており、風呂屋は数が少なくなっている。


 伴左衛門は顔を手拭いで吹きながら伸之介と世間話を始めた。

「私は19歳になる。伸之介さん。年はいくつかい?」

「15になりもした」

「生国はその言葉からすると肥後だね? 遠くからよく来たものだ」


 問われて伸之介は旅の道中のことを語る。

 合いの手を入れるのは伴左衛門だけだったが、久太郎も聞いてはいるようだった。

 京の都にたどり着くところまで話し終わる頃には全身が汗で濡れて光っている。

 自分ばかり語っていてはと伸之介が今度は尋ねた。


「伴左衛門さんはどこん出身じゃしか?」

「私は美濃の出身です」

 そこへ久太郎が会話に入ってくる。

「俺は安芸の出だ。年は18になる」


 伴左衛門が感心した声を出した。

「久太郎。あなたが自分から身の上を話すなんて珍しいですね。普段は役目上必要なとき以外はあまり話さないのに。伸之介さんが余程気に入ったんですね」

 久太郎は照れたように笑う。


 伸之介は久太郎が自分と3つしか年が変わらず伴左衛門よりも年下であることに驚いた。

 態度からすると伴左衛門の方が役職が上なのかと思っていたが単に年齢が上ということらしいと気づく。


「本人のおらん場所で聞っことじゃなかじゃっど、元長さんな?」

「ここ京の都の出身らしいですよ。年は20です。私たちは意気投合して義兄弟の契りを結びました」

「そいで兄者ち呼んじょったんじゃなあ」

「それでは一度汗を流しましょうか」


 伴左衛門はすっくと立ちあがった。

 それに続こうとした伸之介は眩暈を起こして体がぐらりと揺れる。

 さっと動いた久太郎が腕をつかんで支えた。

「大丈夫かい?」

「あいがとごわす」


 伴左衛門は振り返ると申し訳なさそうな顔になる。

「どうやら空きっ腹だったようだね。あまり長風呂は良くなかったかもしれない」

 浴室を出ると石畳の上で竹べらを使って垢を落とした。

 自分で手が届く範囲が終わると老爺がすっと入ってきて手拭いで擦ってくれる。

 伸之介の周囲には他の二人とは比べものにならないほどの垢が散らばっていた。

 それを見て伸之介は羞恥で真っ赤になる。


「長い船旅では仕方ないでしょう。ここに連れてきた甲斐があったというものです」

 最後に水で汗を洗い流すと手拭いで身体を拭いて洗い場から出た。

 借りものの浴衣を着て風呂屋の中庭の縁台で麦湯を飲みながら寛ぐ。

 そこへ丼に入ったうどんが一つ運ばれてきた。

 伴左衛門は伸之介の横に置くようにと指示をする。


 訝し気な顔をする伸之介に伴左衛門は言った。

「ここで兄上と待ち合わせをしているんだ。この後一緒に食事をと思っているんだが、少し腹に入れておいた方が良いと思ってね」

 恐縮する伸之介にさあさあと勧める。

 久太郎も深く頷くので伸之介はありがたく箸をつけるのだった。

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