第10話 嫌がらせ
勇躍して向かった法相寺だったが、伸之介は途中で道草を食うことになる。
ふと見かけた馬上の男が見知った顔だった。
堺の町で伸之介を挑発した萌黄色の服の男だと気が付くと伸之介は矢も楯もたまらずに駆け出している。
あの時、話の是非はともかく、伸之介の喧嘩を萌黄色の服の男は買った。
そうである以上、あの場では堺町奉行所の横やりが入ったが、喧嘩には何らかの決着をつけなければならない。
それが喧嘩の作法というものだった。
「そこん男、待て!」
叫んで伸之介は駆け寄る。
馬上の男はちらりと伸之介の顔を見て意外そうに片眉を上げたが、片頬に冷笑を浮かべると馬腹を蹴った。
「卑怯者、逃ぐっな!」
叫びながら伸之介は走る速度を上げる。
風呂に入り、食事もして、ぐっすりと畳の上で寝たので体力。気力共にじゅうぶんであった。
それでも、いくら伸之介が頑張っても馬が本気で走れば追いつくことは難しい。
伸之介は歯を食いしばり悔しがるがどうしようもない。
憤懣やるかたない表情を消すと来た道を戻り始めた。
何度も方向を変えていた馬を夢中で追いかけていたので、すぐにどちらが法相寺なのか分からなくなる。
碁盤の目に道が走っているのだからどこかで見たことのある道に出るだろうと考えたのが間違いだった。
かなり遠回りをして到着してみると寺の門前は大行列ができている。
伸之介の順番が回ってくる頃には九つ刻を大幅に過ぎていた。
それでも申し込みができ寝床を確保したことに伸之介は安心する。
簡素だが食事も出て、宿坊で眠りについたが、その翌日以降も応募した者の人数は増え続けた。
募集の締め切りとなる月末までに募集人員の20倍を超える600名以上が申し込みをすることとなる。
どのみち、全員が揃うまでは寺内で待機することになっていたのだが、法相寺だけでは足りず他の寺にも分宿することとなった。
そして、人数が増えたことにより割り当てられた食事の量が減り、宿坊がすし詰め状態となったことで衛生状態が悪化し病気になる者も多数出る。
ふらりと訪ねてきた元長が教えてくれたが、これは京都所司代を務める蜂矢家による嫌がらせということだった。
あの日、伸之介と元長たちに手ひどくやられたことの意趣返しに、まず、微罪で京都所司代に拘束していた者たちを釈放し、その際に検非違使に申し込めば当面の寝床と食事が入ると使嗾したらしい。
また、蜂矢家の所領が比較的に京都に近いことから国元に急使を使わせて領内のあぶれ者や破落戸を動員して都に送り込んだのだった。
応募者は夜間は割り当てられた寺の宿坊に泊まるが、日中は外出を禁じられているわけではない。
品行方正ではない連中なので街中へ出歩いて悪さをする者が多数出た。
当初は大々的に募集をした検非違使への非難の声があがったが、やがて事情が知れ渡ると蜂矢家への風当たりが強くなる。
京都所司代にいた囚人を大量に釈放したことや、蜂矢家の所領の言葉をしゃべる人間が多いことなど、あからさまな材料が多すぎたのだった。
あまりに耳目を集めた結果、幕府の高官の耳にも入ることになり、蜂矢美作守は後に安土城に呼び出されて譴責されることになる。
それはさておき、検非違使への応募者は一月近くの間、劣悪な環境に苦しむことになった。
伸之介と同様にぎりぎりの路銀で京の都までやってきた者が多い。
何の根拠もない将来への希望と自分の能力への信頼だけが頼りという状態では、待遇が良くないといってもできることはほとんどなかった。
その点、伸之介は恵まれている。
元長たちも急に悪くなった治安維持のために忙しかったが、なにくれと物品を差し入れるなどの支援をした。
直接面会しては無駄な嫉妬を生むだけだと配慮し直接顔を見せることはない。
それでも滞在している寺の住職を通じて援助をする。
元長は替えの衣類を数点置いていき、そのお陰で伸之介は比較的身ぎれいにすることができた。
そのお陰で寺の外を歩いていても他の志願者のようにあからさまに嫌悪の表情を向けられることはない。
久太郎は山のようなぼた餅を差し入れする。
もちろん伸之介が一人で食べきれないので、住職や小僧、同宿の志願者に惜しげもなく分けた。
腹が減っているときの甘いものの施しは絶大な効果を生む。
自然と伸之介を頭と仰ぐグループのようなものが形成された。
特に痩せこけた体つきの次郎吉という名の少年は勝手に一の子分として振る舞い、寄る辺のない同じ年頃の連中をまとめて伸之介に仕え始める。
「おいらはさ、はなから衛士は無理だと思ってんだ。だから、親分が衛士になったら放免として使ってくれよ」
放免というのは、蛇の道は蛇ということで元犯罪者を捜査活動に活用したものだった。
町奉行所の同心の下で十手を預かる目明しと同じものである。
同時期のイギリスにもシーフテイカーと呼ばれる存在があるが、洋の東西を問わず似たような発想になるらしい。
そして、伸之介が京の町に慣れるために歩いていると、非番なのか着流し姿の伴左衛門がどこからともなく現れて昼間から茶屋に拉致をする。
伸之介に酒の相手をさせながら、芸妓を呼んで投扇興などの遊びを覚えさせた。
元長にバレて小言を言われると事も無げに言う。
「お国言葉がきついと大変でしょう? 自然とここの言葉に慣れるにはこれが一番です」
言い訳にしか聞こえないが、確かに伸之介の訛りは急速に薄れていた。
「でも、京の都の言葉はもっと違う感じかと思ってました」
伸之介の発言に口から猪口を話した伴左衛門が答える。
「そりゃ、全国から人が集まってるんだ。以前の京言葉を話す人間なんか1割にも満たないよ」
答えを聞いて、伸之介はなるほどと言いながら、伴左衛門に酌をした。
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