第10話

 金棒を後部座席にのせ終えた高橋は運転席へ座った。

 高橋が車を発進させる直前になって、カルタはゆっくりと立ち上がった。

 その姿はすでに人間のものではない。二本の立派な角をはやした赤鬼である。


 車をゆっくりと発進させながらなにげなくバックミラーごしに鬼の姿を目にした高橋は「はぁ?」と思わず口にした。

 柏木が「どうした?」と聞くが、高橋は口を開けたまま徐行運転を続けている。


「おい、高橋! なにがあった?」

「はっ……! ア、アニキ……あのガキが……」


 バックミラーにくぎ付けになっている高橋につられて、柏木も後ろを振り返り、ようやく鬼の姿に気付いた。


「おいおい……なんだありゃあ……って、高橋! はやく出せ!」

「へぁ?」

「やつが来た!」

「え? うわぁあああ!」


 高橋がアクセルを踏み込んだが時すでに遅し、鬼は助走をつけて飛び上がる。

 ガンッ、という音を鳴らして、車の後部、バンパー近くに爪をくいこませた。


「おい、振り落とせ!」


 車はスピードを上げて走るが、バックミラーには鬼の姿がうつらない。

 つまり、まだ振り落とされずに車の後ろにひっついているということだ。


 鬼のほうはというと、ギリギリで車に爪をひっかけたものの、足は地面についたままである。

 車が進む勢いもあり、未だに車の上に体を上げることができないでいた。

 それどころか、足がアスファルトによってどんどんとすりおろされていき、地面には鬼の血で赤い線が引かれている。


 その血の線をみて、鬼がどういう状況か理解した柏木は戦慄しながら叫んだ。


「あいつ、いかれてやがる! おい、高橋ぃ! はやくなんとかしろぉ!」

「は、はい! でも、でもどうすりゃいいんっすか!」


 高橋は錯乱し、すがるような思いで柏木のほうを見た。

 それがよくなかった。

 アクセルを全開にした状態でのわき見運転により、あっという間に車のコントロールを失い、電柱に車体をこすりつけた。


「うわぁ!」

「落ち着け! ベンツがそれくらいで止まるわけないだろ! さっさと進め!」


 車体のへこみを増やしたものの、止まるほどの衝撃ではなかった。

 が、その影響でスピードが一時的に落ちてしまう。

 鬼はそのすきを見逃さない。


「オラァ!」


 ほぼ腕の力だけで車の上にのぼった鬼は、そのまま天井まで移動する。

 アスファルトによって削り取られた足の肉も、車上で数秒すごせば再生されて万全の状態になる。

 鬼の反撃が始まった。


 いつもなら金棒を叩きつければいいだけの話だが、今は奪われて手元にない。

 鬼はじっくりと自分の爪を眺めた。

 黒曜石のように輝いた爪は猛禽類のそれのようにするどく尖っている。


 ――俺の爪ってかなり強そうだよな。どの程度頑丈なのか試してみるか。


 鬼は指をそろえて真っすぐに伸ばし、折れないように力を入れた。

 そしてそのまま腕をひき、車の天井にむかって貫手ぬきてをはなった。

 

 ガァンッ! という音が鳴る。

 鬼はまた自分の爪を観察した。


 ――かなり本気で突いたけど、爪が欠けたりはしてないな。


 次に、車体を見ると、まるでツルハシでも叩き込んだかのようなへこみが出来ていた。

 そのへこみの中心地点に、小さな穴も開いている。


 ――いける!


 鬼は車から振り落とされないようにバランスを取りながら、何度も爪を車に突き立てた。

 その度に、銃でも撃ち込まれているかのような音が車内にも鳴り響いていた。


「柏木さん! どうなってんすか! なにが起こってるんっすか!」

「お前は黙って運転してろ! くそ、天井に穴が……」


 柏木は徐々に広がっていく天井の穴をにらみつけた。

 高橋の前で恐怖する様子を見せるわけにはいかないとこらえていたが、すでに叫び出したいほどの恐怖が彼の指を震わせている。

 なんとか震えを抑えながら、ふところから銃を取り出した。


「どんなバケモンでもなぁ……チャカには勝てねぇんだよぉ!」


 柏木はそう叫びながら銃の引き金をひく。

 三発連続で放たれた銃弾のうち、二発は鬼の横をかすめて通りすぎていった。

 そして、一発が鬼の腕を貫いた。


 太い血管を傷つけたのか、大量の血が車内にも流れ落ちてくる。


「は、はっはっはっ! どうだ、コラァ! ヤクザもんをなめるんじゃねぇぞ!」


 柏木は鬼が腕を抑える様子を見て、頬をひくつかせながら笑ったものの、その表情はすぐに真顔へ戻った。

 鬼が傷などなんでもないかのように、天井の穴に手をかけて広げ始めたのである。


「バカバカバカ! やめろ、オラァ! なんでその腕で動くんだよ! 死ね死ね死ね死ねェ!」


 柏木は弾切れになるまで銃を撃ち続けた。

 錯乱状態で狙いもなにもあったものではないが、何発かは鬼に当たり、腕だけでなく腹や胸からも血が吹き出ていた。

 しかし、その傷もすぐに再生され、血も止まってしまうのだ。

 その光景を見た柏木の心はとうとう折れた。


「わ、わ、わ、わかった! わかったから! 返す! 金棒だろ? これを返せばいいんだろぉ!? おい、高橋! 車止めろぉ!」

「……え? 車? 止める?」


 高橋は錯乱状態を通りこし、もう自分で何も考えられないようになっていた。

 柏木の止めろという言葉を聞き、何も考えないまま全力で急ブレーキをかける。


「ぐわぁ!」


 柏木も、ブレーキをかけた高橋本人も勢いよく車内に体をぶつけた。

 まるで事故にでもあったかのような衝撃を受けて二人ともうめき声をあげている。


 鬼は鬼で、車の前方へ吹っ飛ばされて、アスファルトの上をゴロゴロと勢いよく転がった。

 鬼は全身を血に染めながらも、立ち上がり、車へと近づいていく。


 柏木はいそいで車から降り、後部座席にあった金棒を車の外へ出した。

 そして、舎弟の高橋よりも下っぱらしい態度で、鬼へ金棒を差し出した。


「ど、どうぞ。すみませんでしたぁ!」


 鬼が金棒受けとると、柏木は「どうか! どうか許してください!」と叫びながら、土下座まで披露する下っぱぶりである。

 鬼は金棒を肩に担いで、柏木の姿を黙ってみている。


「……ぐっ……高橋ぃ! お前も土下座しろオラァ!」

「土下座? はいぃ!」


 高橋は運転席から転げ落ちるように外へ出て、そのまま柏木の横で土下座をした。


「ヤクザなら……ケジメのつけ方はわかるよな?」


 鬼は静かにそう言った。

 柏木はバッと顔を上げて、鬼の顔を凝視した。


「つ……つまり、指詰めエンコってことですか?」

「はぁ……。お前、ヤクザをなめてるんじゃないか?」

「は?」


 まさか鬼の口からそんな言葉が出てくるものとは思わなかったのか、柏木は間抜けな声をあげた。

 それが彼の最期の言葉となった。


「たかが小指で済むはずがないだろう。命だよ」


 鬼は金棒を軽く振り抜いた。

 それだけで柏木の命は消え去った。

 また土下座の姿勢に戻った柏木の頭は上半分が陥没しており、そこから流れだした液体が、いまだに地面にこすりつけたままの高橋のひたいを濡らした。


 高橋はその感触に対してなんの反応も示さず、ただ土下座の姿勢を保ち続けていた。


「……なんなんだ、こいつ? 壊れたのか?」


 鬼は呆れたようにそう言って、やはり軽く金棒を一振りした。

 まるで、いたずらをした子供に母親がコツンとゲンコツを落とすような優しささえ感じる軽さではあったが、それによってもたらされる結果は絶望的に異なる。

 高橋もまた柏木と同じ姿勢のまま絶命していた。

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