第8話

 人間に戻った後もだらだらと走り続け、いつの間にか夜になっていた。


 夜はモンスターのほうが有利になる時間帯と考えられるため、このまま移動し続けるのは危険すぎると判断したカルタは、街中で見つけたボロい倉庫に侵入して夜を明かすことにした。


 倉庫の防護性は皆無なのでモンスターがやってきたら籠城するのは無理だろう。


 カルタはいままでの戦闘経験から、「ゴブリン程度なら俺でも倒せるだろう」と判断し、この程度の倉庫でも問題ないと感じていた。


 倉庫の中で、小さな窓から入るぼんやりとした月明りを見つめながら彼は考えごとにふけっていた。

 


 服の下に手を突っ込んで胸の辺りをさわった。

 傷ひとつないなめらかな肌が手に触れた。

 つい数時間前に矢が刺さったとは思えない。


 そのまま手を胸に押しつけて心臓の鼓動を感じた。

 なにごともなかったかのようにドクドクと一定のリズムを刻んでいる。


 ――心臓を刺されても死なないのか。


 ――俺は本当に人間か? モンスターになったと言われたほうが納得できるぞ。


 アケミと呼ばれていたあの弓使いの女を思い出したカルタは胸が重くなるのを感じた。

 心臓を射たれた後遺症というわけでもなく、彼女を殺してしまったことに対する罪悪感なのか、なんなのか、自分でもいまだに整理がついてはいなかったが、ともかく、気持ちの部分の問題だった。


 胸の周辺だけがズーンと重い。ピンポイントでそこだけ重力が2倍に増しているような気がした。

 まるで地の底から、彼女の亡霊がカルタの心臓を地獄へ引きずり込もうとしているようだった。アケミが死ぬ間際に「死んだあとに、お前を呪い殺してやるからな!」と言っていた、その台詞が頭の中にリフレインする。


「これが呪いか?」


 地獄の底で、アケミが弓を構えているような幻想が見えた。何本も何本もカルタにむかって矢を放つ。その矢が、今まさにカルタの心臓に突き刺さっているような気がした。



 そばにあった金棒を無意識のうちにつかんでいたカルタは、ごまかすように金棒の手入れをはじめた。


 手入れといっても、倉庫の中にたまたまあった雑巾ぞうきんで金棒全体をふくだけである。


 手入れをしながら、金棒の元の持ち主を思い出していた。


 ――タケシだったか……? あいつを殺したときよりも、アケミを殺したときのほうが精神的な負荷が大きいな。


 ――女だから、かわいそうだと、俺がそう考えているんだろうか?


 このような状況になるまでは、なんとなく、女性には優しくするべきだとカルタは考えていた。


 男が女を守るべきだと、そう考えていた。


 その名残が、アケミを殺したことに対する罪悪感となっているかもしれない。


 しかし、彼女はカルタを殺そうとしたのだ。


 自分を殺そうとする相手に、優しくする必要はない。守る必要もない。


 ひとたび殺し合いが始まれば、人間として身につけた道徳は無価値になる。


 ――いや、こういうときにこそ、道徳感が求められるのか?


 殺し合いを始めた人間はもう人間ではなくなる。


 道徳や理性を捨てた後は、人間以前の猿と同等になるのではないか、とカルタは思った。


 ――タケシもアケミも猿だ。


 ――俺は? 猿か? 鬼か? モンスターか?


「はぁ……。もっとましなことを考えよう。なにか、もっとましな、建設的な、なにかを」


 次に彼が考えることにしたのは自身の記憶のことであった。


 ――目が覚めたとき神代山かみしろやまにいたということは、もしかして遠藤さんと山を登っている最中になにかあったんじゃないか?


 ――俺が鬼になり遠藤さんを殺した可能性は?



 何をするにしても、やはり記憶が戻らなければモヤモヤとしたままである。


 明日は、まず自分の家に行き、念のため自室にスマートフォンがないか探すことに決めた。





 朝早く目が覚めたカルタは保存食を少し食べたあと、倉庫から出て街を歩いた。


 遠くのほうで、人間の悲鳴やモンスターの鳴き声が聞こえたが、カルタが直接遭遇することはなかった。



 太陽がのぼり、明るくなったころには、自分の家である三階建ての安アパートにたどり着いていた。


 アパートは静まり返っている。



 彼は静かに鍵をあけて自分の借りている部屋に入った。


 入った瞬間、モンスターが飛びかかってくる可能性も考慮して金棒を振り上げていたが、幸い部屋の中には何もいなかった。


 ほっと胸をなでおろし、細く長い息を吐いたあと、音が鳴らないように慎重に鍵をしめた。ゆっくりと、警戒を維持しながら部屋の中を見て回ったが、荒らされている様子はないし、モンスターや人が隠れていることもいないようで、今度こそ完全に気をゆるめて、その場にへたりこんだ。



 服を着替えたあと、スマートフォンを探してみたが、やはりなかった。いつも着ている私服も一セットないので、外出した先で何もかもを失ったのだろう。



「スマホをなくすのはまだわかるけどさ、なんで全裸だったんだ? 鬼になっても体格は変わらないから服が破けることはないだろうし。ゴブリンに追いはぎでもされたかなぁ?」



 スマートフォンはないが、公衆電話をかければいいじゃないかと思いついたカルタだったが、そういえばこのあたりで公衆電話なんて見かけたことがないと思いなおす。


 仮に、公衆電話を見つけたとしても、自分の電話番号以外覚えていない。


 親の電話番号もである。



「遠藤さんの安否も気になるけど、母さんは大丈夫かな」



 カルタの父は数年前に病気で死んでしまった。


 母はまだ生きている。いや、少なくとも世界がこうなる前までは生きていたというべきか。


 今もまだ生き延びているかは不明である。


 カルタは東京で一人暮らしをしており、母は関西にいる。


 生きていてほしいと思う半面、はやめにこの世からいなくなったほうが幸せなのかもしれないというほの暗い考えも頭によぎった。




 空腹のまま一人でうだうだと考えてもろくなことにならさそうだったので、彼はまず腹ごしらえをすることにした。


 電気もガスも無事だったので、温かいご飯を作ろうと思ったのだが、音や臭いでモンスターが寄ってくると嫌なので、あきらめて調理不要なものだけを食べることにした。



 カルタは冷蔵庫に入っていた魚肉ソーセージをかじりながら、ノートパソコンの電源をつけた。


 SNSなどで友人がいるわけでもなく、連絡できる相手がいるわけではないが、なによりもネットで情報収集すべきだろう。



 起動に時間のかかるパソコンをぼーっとながめながらくつろいでいると、突如、世界が粉々にくだけたかのような音が鳴り響いた。



「うわああぁぁ! なんだ!?」



 とっさに音の鳴った方へふりむくと、ベランダにつながるガラス戸が割れていた。 


 そして、部屋にはゴブリンがいる。


 ガラス戸を突き破って部屋に入ってきたのだ。



「ゲギャ!」



 自分で突入してきたくせに、数秒間混乱した様子で部屋の中をキョロキョロと見回しているゴブリン。


 敵がそれだけの隙をさらしているので、鬼の状態になり、戦闘に頭を切り替えた後のカルタであれば既にゴブリンを殺しきっていたであろう。


 しかし彼は元々格闘技や喧嘩の経験もない平和ボケした人間である。とっさに体は動かない。いきなりの事態に、体も頭も硬直してしまった。


 カルタはゴブリンの真似でもしているかのように、自分の部屋の中を無意味にキョロキョロと見回している。



「痛ぇ!」



 やるべきことを先に理解したのはゴブリンのほうだった。


 カルタは胸のあたりを殴られてようやく「らなければ、られる」と自覚した。


 そして、まず第一にやったことは、反対を向いて逃げることだった。


 しかしそれは闘争のための逃走。


 部屋から出てキッチンに向かった彼は果物ナイフをつかみ取り、後ろから追いかけてきていたゴブリンに向けて勢いよくナイフを振りきった。


「やああぁぁ!」


「グギィッ!」


 ナイフはゴブリンの鼻先をかすめるだけにとどまった。


 戦闘におけるナイフの使い方など知らないカルタは、へっぴり腰のまま、不細工に腕を振り回し続けた。


 切っても浅い傷しかつかないと理解した後は、方針を変更し、とにかく突き刺すことにした。まっすぐに何度もナイフを突き出して、ゴブリンをめった刺しにした。


 いつしかゴブリンが床にくずれおち、動かなくなり、確実に絶命していると頭で理解した後も、さらに刺し続けた。恐怖によって、自分の行動をとめることができないのである。



「うわあぁ! あああぁぁ!」


 自分の行動を無理やり止めるために、あえて大声で息が切れるほどに叫んだカルタは、ようやく我に返った。



「ハァ……ハァ……うぅぅ……ビビった……クソッ……!」



 ナイフを手放した後、震える手を見てみると肌はいつもと変わらない色だった。


 返り血をあびて赤く染まっているが、肌自体は赤くない。



「鬼にならなかった、のか? なんで? こういうときこそなってくれないと困るのに。いつも変身するわけじゃないのか? よくわからないな……」



 彼はぼやきながら床の上を見渡した。


 ガラスの破片とゴブリンの血が飛び散っている。


 そして、それらにまじって画面の割れたノートパソコンが転がっていた。



「あぁ! パソコンが!」



 戦闘中、ゴブリンによって机の上から叩き落とされたらしい。


 電源ボタンを押してみたが反応しない。完全に壊れている。



 しばらく床に座ったまま、割れたガラス戸からぼんやりと外をながめていたカルタは、ふと、ここが二階であることを思い出した。


 ゴブリンは壁を登ってきたのか? 登れるような取っかかりなんかあっただろうか、と思いながらベランダに出てみると、隣の部屋との間にある薄い仕切りが破壊されていた。


 破壊音は聞こえなかったので、おそらく前日までの間で壊されていたのだろう。


 隣の部屋にひそんでいたゴブリンがベランダを通ってカルタの部屋までやってきたのだと推測される。



 カルタはベランダから部屋に戻り、玄関まで向かった。そして靴を履いて、そのまま部屋の中を歩いた。


 すでにガラスと血だらけの部屋を靴なしで歩くことはできなくなっていた。


 ふたたびベランダへ出て、壊れた仕切りを踏みつけながら、そのまま隣の部屋へと移動した。


 そろりと部屋の中を見てみると、ゴブリンにやられたであろう人間の死体があった。



「お隣さんの顔初めて見たなぁ。南無阿弥陀仏」



 手を合わせつつ、部屋を物色させてもらえば、なにやらパンパンに膨らんだリュックがあるではないか。


 中を見ると乾パン、羊羹ようかん、包帯など、この非常事態で役に立ちそうなものがいろいろと入っている。



「すげぇ! 神だ、この人! でも、なんでこんな準備万端なのに逃げなかったんだろう。……って、怖いからか。俺だって外にモンスターがいるってわかってたら引きこもるかも。いつか自衛隊かなにかの助けがくるんじゃないかって、ギリギリまで信じて待つだろうな」



 ふと部屋の壁にある電子時計を見ると、日付も表示されるタイプのもので、カルタは山で目覚めていらい、初めて現在の日付を知ることができた。




「11月5日か。ってことは、俺が目覚めた日は、神代山にいく予定を立てていた次の日ってことか。遠藤さんと山に登って、何かがあって、裸になって、一日寝てた?」



 しばらくの間、頭をコツコツと指先で叩きながら記憶をさぐったもののやはり何も思い出せなかったので、あきらめて隣人のリュックだけを持って自室へと戻った。



 部屋にはゴブリンの死体があるし、窓も割れてしまっている。この部屋でこれ以上すごすのは無理だろう。


 せっかく一息をついて、心の底から落ち着ける場所にたどり着けたというのに、一瞬にして破壊されてしまった現実にうんざりしながらも、カルタはここを出る決心をした。


 彼はリュックと、重たい金棒の入ったゴルフバッグを背負い、再び外へと向かうのであった。

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