第8話
2030年11月4日 20時ごろ
人間に戻った後もだらだらと走り続け、いつの間にか夜になっていた。
夜はモンスターのほうが有利になる時間帯と考えられるため、このまま移動し続けるのは危険すぎると判断したカルタは、街中で見つけたボロい倉庫に侵入して夜を明かすことにした。
倉庫の防護性は皆無なのでモンスターがやってきたら籠城するのは無理だろう。
カルタはいままでの戦闘経験から、「ゴブリン程度なら俺でも倒せるだろう」と判断し、この程度の倉庫でも問題ないと感じていた。
倉庫の中で、小さな窓から入るぼんやりとした月明りを見つめながら彼は考えごとにふけっていた。
服の下に手を突っ込んで胸の辺りをさわった。
傷ひとつないなめらかな肌が手に触れた。
つい数時間前に矢が刺さったとは思えない。
そのまま手を胸に押しつけて心臓の鼓動を感じた。
なにごともなかったかのようにドクドクと一定のリズムを刻んでいる。
――心臓を刺されても死なないのか。
――俺は本当に人間か? モンスターになったと言われたほうが納得できるぞ。
アケミと呼ばれていたあの弓使いの女を思い出したカルタは胸が重くなるのを感じた。
心臓を射たれた後遺症というわけでもなく、気持ちの問題である。
胸の周辺だけ重力が増しているような気がした。
まるで地の底から、彼女の亡霊がカルタの心臓を地獄へ引きずり込もうとしているようだった。
「これが呪いか?」
そばにあった金棒を無意識のうちにつかんでいたカルタは、ごまかすように金棒の手入れをはじめた。
手入れといっても、倉庫の中にあった
手入れをしながら、金棒の元の持ち主を思い出していた。
――タケシだったか……? あいつを殺したときよりも、アケミを殺したときのほうが精神的な負荷が大きいな。
――女だから、かわいそうだと、俺がそう考えているってことなのか?
このような状況になるまでは、なんとなく、女性には優しくするべきだとカルタは考えていた。
男が女を守るべきだと、そう考えていた。
その名残が、アケミを殺したことに対する罪悪感となっているかもしれない。
しかし、彼女はカルタを殺そうとしたのだ。
自分を殺そうとする相手に、優しくする必要はない。守る必要もない。
ひとたび殺し合いが始まれば、人間として身につけた道徳は無価値になる。
――いや、こういうときにこそ、道徳感が求められるのか?
殺し合いを始めた人間はもう人間ではなくなる。
道徳や理性を捨てた後は、人間以前の猿と同等になるのではないか、とカルタは思った。
――タケシもアケミも猿だ。
――俺は? 猿か? 鬼か? モンスターか?
「はぁ……。もっとましなことを考えよう。なにか、もっとましな、建設的な、なにかを」
次に彼が考えることにしたのは自身の記憶のことであった。
――目が覚めたとき
――俺が鬼になり遠藤さんを殺した可能性は?
何をするにしても、やはり記憶が戻らなければモヤモヤとしたままである。
明日は、まず自分の家に行き、念のため自室にスマートフォンがないか探すことに決めた。
2030年11月5日 早朝6時
朝早く目が覚めたカルタは保存食を少し食べたあと、倉庫から出て街を歩いた。
遠くのほうで、人間の悲鳴やモンスターの鳴き声が聞こえたが、カルタが直接遭遇することはなかった。
太陽がのぼり、明るくなったころには、自分の家である三階建ての安アパートにたどり着いていた。
アパートは静まり返っている。
彼は静かに鍵をあけて部屋に入った。
入った瞬間、モンスターが飛びかかってくる可能性も考慮していたが、幸い部屋の中には何もいなかった。
鍵をしめ、慎重に部屋の中を見て回ったが、荒らされている様子はなく、ほっと胸をなでおろす。
服を着替えたあと、スマートフォンを探してみたが、やはりなかった。いつも着ている私服も一セットないので、外出した先で何もかもを失ったのだろう。
「スマホをなくすのはまだわかるけどさ、なんで全裸だったんだ? 鬼になっても体格は変わらないから服が破けることはないだろうし。ゴブリンに追いはぎでもされたか?」
スマートフォンはないが、公衆電話をかければいいじゃないかと思いついたカルタだったが、そういえばこのあたりで公衆電話なんて見かけたことがないと思いなおす。
仮に、公衆電話を見つけたとしても、自分の電話番号以外覚えていない。
親の電話番号もである。
「遠藤さんの安否も気になるけど、母さんは大丈夫かな」
カルタの父は数年前に病気で死んでしまった。
母はまだ生きている。いや、少なくとも世界がこうなる前までは生きていたというべきか。
今もまだ生き延びているかは不明である。
カルタは東京で一人暮らしをしており、母は関西にいる。
生きていてほしいと思う半面、はやめにこの世からいなくなったほうが幸せなのかもしれないというほの暗い考えも頭によぎった。
空腹のまま一人でうだうだと考えてもろくなことにならさそうだったので、彼はまず腹ごしらえをすることにした。
電気もガスも無事だったので、温かいご飯を作ろうと思ったのだが、音や臭いでモンスターが寄ってくると嫌なので、あきらめて調理不要なものだけを食べることにした。
カルタは冷蔵庫に入っていた魚肉ソーセージをかじりながら、ノートパソコンの電源をつけた。
SNSなどで友人がいるわけでもなく、連絡できる相手がいるわけではないが、なによりもネットで情報収集すべきだろう。
起動に時間のかかるパソコンをぼーっとながめながらくつろいでいると、世界が粉々にくだけたかのような音が鳴り響いた。
「うわぁ! なんだ!?」
ベランダにつながるガラス戸が割れている。
部屋にはゴブリンがいる。
ガラス戸を突き破って部屋に入ってきたのだ。
「ゲギャ!」
自分で突入してきたくせに、数秒間混乱した様子で部屋の中をキョロキョロと見回しているゴブリン。
敵がそれだけの隙をさらしているので、鬼になったカルタであれば既に殺しきっていたであろう。
しかし彼は元々格闘技や喧嘩の経験もない平和ボケした人間である。とっさに体は動かない。
カルタもゴブリンの真似でもしているかのように、自分の部屋の中を無意味にキョロキョロと見回していた。
「痛ぇ!」
やるべきことを先に理解したのはゴブリンのほうだった。
カルタは胸のあたりを殴られてようやく「
そして、まず第一にやったことは、反対を向いて逃げることだった。
しかしそれは闘争のための逃走。
部屋から出てキッチンに向かった彼は果物ナイフをつかみ取り、後ろから追いかけてきていたゴブリンに向けて勢いよくナイフを振りきった。
ナイフはゴブリンの鼻先をかすめるだけにとどまった。
戦闘におけるナイフの使い方など知らないカルタは不細工に腕を振り回し続けた。
切っても浅い傷しかつかないと理解した後は、何度も刺した。
いつしかゴブリンが床にくずれおち、動かなくなり、確実に絶命していると頭で理解した後も、さらに刺し続けた。
「うわあぁ! あああぁぁ!」
自分の行動を止めるために、あえて大声で息が切れるほどに叫んだカルタは、ようやく我に返った。
「ハァ……ハァ……うぅぅ……」
ナイフを手放した後、震える手を見てみると肌はいつもと変わらない色だった。
返り血をあびて赤く染まっているが、肌自体は赤くない。
「鬼にならなかった、のか? こういうときこそなってくれないと困るのに。いつも変身するわけじゃないのか? よくわからないな……」
彼はぼやきながら床の上を見渡した。
ガラスの破片とゴブリンの肉片が飛び散っている。
そして、それらにまじって画面の割れたノートパソコンが転がっていた。
「あぁ! パソコンが!」
ゴブリンによって机の上から叩き落とされたらしい。
電源ボタンを押してみたが反応しない。完全に壊れている。
しばらく床に座ったまま、割れたガラス戸からぼんやりと外をながめていたカルタは、ふと、ここが二階であることを思い出した。
ゴブリンは壁を登ってきたのか? 登れるような取っかかりなんかあっただろうか、と思いながらベランダに出てみると、隣の部屋との間にある薄い仕切りが破壊されていた。
破壊音は聞こえなかったので、おそらく前日までの間で壊されていたのだろう。
隣の部屋にひそんでいたゴブリンがベランダを通ってカルタの部屋までやってきたのだ。
カルタは玄関で靴を履いて、そのまま部屋を歩いた。
すでにガラスと肉片だらけの部屋を靴なしで歩くことはできなくなっていた。
ベランダへ出て、壊れた仕切りを踏みつけながら、そのまま隣の部屋へと移動した。
そろりと部屋の中を見てみると、ゴブリンにやられたであろう人間の死体があった。
「お隣さんの顔初めて見たなぁ。南無阿弥陀仏」
手を合わせつつ、部屋を物色させてもらえば、なにやらパンパンに膨らんだリュックがあるではないか。
中を見ると乾パン、
「すげぇ! なんでこんな準備万端なのに逃げなかったんだろう。……って、怖いからか。俺だって外にモンスターがいるってわかってたら引きこもるかも」
ふと部屋の壁にある電子時計を見ると、日付も表示されるタイプのもので、カルタは山で目覚めていらい初めて現在の日付を知ることができた。
「11月5日……ってことは、俺が目覚めた日は、神代山にいく予定を立てていた次の日ってことか。山に登って、何かがあって、裸になって、一日寝てた?」
しばらくの間、頭をコツコツと指先で叩きながら記憶をさぐったもののやはり何も思い出せなかったので、あきらめてリュックだけを持って自室へと戻った。
部屋にはゴブリンの死体があるし、窓も割れてしまっている。この部屋でこれ以上すごすのは無理だろう。
彼はリュックと、重たい金棒の入ったゴルフバッグを背負い、再び外へと向かうのであった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
気が向いたらブックマークをお願いします。
また、下にある「応援する」を押していただけるとうれしいです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます