episode28
「あの……飯縄、先生。」
取り残された二人、揃って流しの前で呆然と立ち尽くしていたとき、春来先生が微かに身動ぎ、遠慮がちに声を発した。
「先程の麻績先生の話ですが……。飯縄先生、本当にすみませんでした……!」
春来先生が、ぼくに向かって丁寧な動作で頭を下げた。美麗なその動作に、ぼくは戸惑いと困惑を忘れるほど見惚れた。
しっかり一秒で頭を下げて、二秒を掛けて体を戻す。体を完全に元に戻した後、彼は小さく口を動かした。
「あの時……自分自身も混乱していて、形振り構っていられなくて……。すみません、これ、言い訳、ですね……。あの、本当に……!」
……ぼくは、震える春来先生の肩に、そっと手を置いた。全てを失ったような表情の春来先生が、ぼくには痛かった。
「春来先生。葉鳥の言葉は全て忘れてください。あれは、全てがぼくの落ち度です。春来先生には、何の関係もない。気にしないでください。」
確かに、あの絶叫で現実に引き戻されたのは確かだ。でも、仮に普通に意識を戻したとしても、ぼくは自分の絵を恐れていただろう。春来先生が自分を責める必要は、何一つない。
正直、死神顔だから笑っても意味ない気がするが、無表情より良いだろうと、春来先生に向かって笑みを見せた。春来先生は目を見開いた後、小さく頷いた。
冷静で落ち着いた男性だが、彼はまだ二十四歳。ぼくだって、その頃はまだ何も知らずに絵を描いていた。
「……春来先生。もしよろしければ、その日に何があったのか、教えていただけませんか?」
春来先生が、少しだけ穏やかな顔つきになって、小さく頷く。その後に聞いた彼からの話は、ぼくが想像していた以上に過酷なものだった。
けれど、ぼくは、彼の言葉を一文字でも逃さないように、じっと聞いていた。
「……そういえば、飯縄先生は、望逢夢を気に掛けてくださっていますよね。」
すべてを話してくれたらしく、暫く無言の時間があったのだが、春来先生が思い出したように口を開いた。
「え、ええ……。勝手にやっていることですが。」
確か、春来先生は彼女の担任だったか。そんなことを軽く思い出していると、春来先生がぼくに向かって柔く微笑んだ。
「あの子のことをよく見て下さって、ありがとうございます。貴方に会ってから、逢夢は良く笑うようになった。」
……逢夢?それに、あの子って呼んで、親しげに……。
「えっと、春来先生は望さんと、昔からの知り合いなんですか?」
いきなり、古い知人の話でもしているかのような雰囲気に、ぼくは疑問を返した。すると春来先生は、「ああ……」と、付け足すように言った。
「望逢夢は、従妹なんですよ。」
「……え!?」
ずっと知らなかった春来先生の親戚が、望さんだったことに驚く。でも、言われてみると、美貌や雰囲気の柔らかさは似ている。
春来先生は、改めてぼくの方を見る。それから、今まで見た中で一番、年相応な笑顔を見せた。
「逢夢に声を掛けて下さって、本当に、ありがとうございます。」
彼の笑顔に、ぼくもまた、笑みを返した。
なんだか、とても、嬉しかったから。
○○○○○○○○○○
「そう言うことなら、春来先生を責めるのは酷です……。申し訳ない。」
「いや、此方も言葉尻が強くなってしまって……あれ。」
オレと青木先生は、それぞれ双方の言い分を理解し、納得した状態でリビングに戻った。すると、窓辺に、目尻を濡らしたままの春来先生と、穏やかな微笑を浮かべた花束が眠っていた。
「……静か、ですね。」
「ええ。」
オレも青木先生も、二人を見てから笑った。愛おしいその寝顔に、オレは自然と視線を吸い付けられながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます