episode29
「
春の柔らかな日差しは、彼女の門出に相応しいと思った。胸に造花を挿した望さんは、ぼくの声にそっと振り返った。
「……先生。」
自分の卒業式だというのに、望さんはあまり浮かない表情だった。これは今日に限ったことではなく、中学三年の夏季休暇明けから、彼女は暗い顔をしていた。
望さんの幼なじみである
ぼくはあえて、その理由を聞かなかった。尋ねた方がいいかもしれない、とも思ったけれど、今まで不気味なほどに『大人らしさ』を掴んで離さなかった彼女のことだから、入り込まれることを是とはしないと考えたからだ。
それに、その他の複数名の生徒や教師も、夏季休暇明けから表情を曇らせることが多くなったため、彼女一人だけの問題ではなく、全体的な話なのだと思った。
知らないふりをするのも、身近な大人の役割なのかもしれない。使う場所を間違えることは避けなければならないが、子どもは案外、大人とは別に自己を持っているものだ。
……例えそれが、大人にとってどれほど幼稚で馬鹿げていたとしても。
「卒業、おめでとうございます。」
「ありがとうございます、先生。」
淡白なやり取りだ。望さんから笑顔が消えると、木柳くんの無表情とはまた違う冷徹さが窺えるらしい。背筋まで冷やす顔と、春の暖気の温度差が、余計にそれを掻き立てる。まるで、処刑台にかけられる犯罪者のようだ。
「望さん。」
ぼくは優しく、彼女に言った。
「これからも、自分が描きたいと思う絵を、描き続けてください。楽しみにしています。」
ぼくの卒業時に、
望さんは、ぼくの目を見上げる。それから、慌てたように目を逸らした。何かから必死に逃げるような顔色で、唇を噛んでいる。
彼女の目から、涙が一筋零れた。必死に涙を抑えた末に溢れたようで、望さん自身にも、止められそうになかった。
……望さんに何があったのかは、何も知らない。けれど、影を隠せなくなっていることからも、見えない何かに相当、追い詰められていたのかもしれない。
「先生……っ、わ、た、私は……、絵を描いても……良いんでしょうか……?」
しゃくりあげながら、望さんはそう言った。遠くから感じる、『先生、何やってるんですか』とでも言いたげな木柳くんの視線が痛い。
望さんの涙が落ち着くのを待ってから、ぼくは彼女に「勿論です」と言った。
「本人の力が、他人の制御を下回るなんてこと、有り得ませんから。自分の願いや欲望は、望さんだけのものですよ。」
三年の夏季休暇を終えてから、彼女の瞳は時折、ラピスラズリからタンザナイトへと変わるようになった。その望さんの目がぼくの目と合ったとき、ぼくは望さんのこれからの幸福を願って、言った。
「望さん、四年間、本当にありがとうございました。」
望さんは、手に持っていた賞状筒を握りしめ、未だ涙が落ちる顔で、笑った。
その笑顔は、今まで見た彼女のどんな作品よりも、美しく、強く見えた。
生徒が全員、学校を出たあと、ぼくは一つ深呼吸をした。
もう、大丈夫。そう信じて、ぼくは一つの決心を固めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます