episode30

「そんなにすぐ出ていかなくてもいいのに……。」

「何言ってるの。四月からは婚約者と住むんでしょ。いやー、とりがまさか白桃しらももさんと結ばれるとはねぇ……。」

「――おい待て、何の話だよ?」

 ぼくは、葉鳥と住んだ家を離れるため、荷造りをしていた。自分が絵を描けるようになったことと、望さんとの関わりが無くなることが重なり、教師の仕事も辞めた。これから、細々と絵を描きつつ、隣の県の大きな美術館で働くことになっている。

 まだ、やりたくても出来ていないことは多くある。年齢を鑑みたらかなり危うい気もするが、幾つになっても、本人にやる気があるからいいだろう、と、半ば誤魔化しのような納得をした。


「あ、葉鳥、これ。最後になるけど。」

 荷物を粗方詰め込んでから、ぼくは小さな封筒を手渡した。それの中身を見る前に、葉鳥は眉を顰めた。

「……おい、明らかに多いんだけど。絶対、家賃そのままじゃないだろ、これ。」

「今までの迷惑代として、受け取っておいてよ。それに、大した額じゃない。好きな事に使って。」

 葉鳥は改めて封筒の中身を一瞥し、大きく溜息を吐くと、「分かったよ」と、素直に受け取ってくれた。

「……花束はなたば。」

 葉鳥が、やけに寂しそうにぼくを呼んだ。その声が、喉が、ぼくがわかるほどに震えている。

「花束。」

 葉鳥が、真っ直ぐにぼくの目を見た。

「オレは、お前のことが、ずっと好きだ。」

 ……幼い頃から変わっていない、真っ直ぐで純粋な瞳。燦々と降り注ぐ陽光のような鮮やかさは、見ていてとても、温かくなる。

「葉鳥。ありがとう。……本当に。」

 綺麗な瞳に、うっすら涙が浮かんでいる。その顔に、ぼくは笑った。

「ぼくも、葉鳥が好きだよ。死ぬまで、大事な親友だから。」

 葉鳥の顔が、一瞬、無表情に変わる。それから、パッと、華やかな笑顔に変わった。

「……ああ。」

 そう答えた葉鳥の顔は、とても晴れやかだった。


○○○○○○○○○○


「そういえば、これ、流石にもう飲めないよ。」

「へ?何が?」

 やっぱりか。ぼくは、ずっとおいてあったブルーキュラソーのボトルを掲げた。

 適切に保存して二年と言われるブルーキュラソー。持ち主本人が飾り物だと思っていたようで、ずっと放置されていたのだ。

「もう飲めないから捨てな、これ。」

「それ、飲みもんだったのか?」

「アルコールだよ。キュラソー。」

 ぽかんとした葉鳥の顔が、何だか笑える。ぼくはボトルを机に置くと、その青を眺めた。

「……興味があるなら買ってみな。ぼくも一回、どこかで飲もうと思ってるんだ。」

 鮮やかな青色。その青に、ぼくはいつしかの彼女を見ていた。

 ブルーラグーンを作ろうと思って、止めた。彼女の名前に入っている「水」という文字に、どことなく青を感じた。カクテル言葉に痛くなって、避けた。

 そんな記憶や思考が残ったブルーキュラソーを、ぼくはじっと見つめていた。

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